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私は16歳と21歳の2回、中絶を経験しました。私は...
私は16歳と21歳の2回、中絶を経験しました。私はカソリックを信仰しているので、16歳の時は中絶するよりも結婚して子供を産む方が悪いことだと思いました。今、私はパートナーとの間に子供がいますが、抗生物質を服用するとピルが効かないということを知らずに、また妊娠してしまいました。息子がまだ2歳なので、2回目の中絶をすることにしましたが、2回目はそれほど難しい選択ではありませんでした。決断まで気持ちが二転三転したわけでもなく、自分の決断にかなり満足していました。1回目と2回目には大きな違いがありました。一回目の中絶の後、私は本当に動揺し、それが長い間私の中に残っていました。一回目はとても恥のように思いましたが、今回はそのような思いはありませんでした。今回は冷静で、自分の決断に自信がありました。
私たちは6人家族で、夫は10年前にパイプカットを...
私たちは6人家族で、夫は10年前にパイプカットをしたので避妊はしていませんでした。月経が来ないので妊娠検査薬を試したところ、妊娠の自覚はなかったのですが、陽性反応が出ました。2回試しましたが、2回目も陽性でした。かかりつけ医は私をクリニックに紹介しました。非常にショックを受けましたが、私たち夫婦は、私たちの家族は今の家族が完成形で、私たちは妊娠中絶を選択すると意見が一致しました。適切な判断を迅速にした経験でした。許可が出たので、カウンセリングと同じ日に処置を受けることができました。
私は5年前、23歳の時に中絶をしました。毎周期の...
私は5年前、23歳の時に中絶をしました。毎周期のピルセットのうち2回は飲むのがかなり遅れて、1回は完全に飲むのを忘れました。でもピルで何年も何事もなかったので、心配する必要はないだろうと思っていました。次の月経がなかなか来なかったので、陽性になるはずがないと信じて妊娠検査薬で検査してみました。3回目の検査でようやく妊娠がわかったのですが、私は母親になるつもりがないことはすぐにわかりました。この状況に対処するためには、2人の医師の承認が必要であること、そして中絶を希望する理由が1967年の中絶法で定められた条件に当てはまらなければ、この処置が合法的でないことがわかりました。私はイギリスにおける中絶を取り巻く法律について調べまくりました。そして、もし私の状況が厳しい状態でないと、医師の門前払いに合うかもしれないと考えると、絶望的な気持ちになりました。私はかかりつけ医と予約を取り、うつ病の既往症について話をしました。私は、今この瞬間に子どもを持つことは私のメンタルヘルスが危機的になると伝えました。かかりつけ医は、私が中絶手術を受けることに同意し、その手続きを行うには2人目の医師と話をする必要があると告げました。妊娠がわかったのは妊娠のごく初期、(★月経予定日から)2〜3週目でしたが、実際に中絶の日程を決めることができた時には、(月経予定日から)7週目に差し掛かろうとしていました。
ピルを切らしてしまったけれど、病院の予約が取れ...
ピルを切らしてしまったけれど、病院の予約が取れなかった時に、妊娠してしまいました。ネットで、ピルは、飲むのをやめてもしばらくは体内に残ると書いてあったので、少しなら飲まなくても大丈夫だろうと思っていたのですが、明らかにそれは間違っていました。私はパートナーには、妊娠を伝えませんでした。私は自分がどうしたらいいかわかっていました。私はまだ学生で、子どもをもつ準備ができていないと思いました。とても苦しくて、中絶するまでは、ベッドに横たわっても、「私の中に子どもがいるんだ」と、とても悲しい気持ちになることがありました。そのような瞬間は本当に混乱しました。中絶後、私はクリニックを出るときに避妊具を渡されませんでした。その後、かかりつけ医でインプラントを勧められましたが、気が進みませんでした。ピルを飲もうと思うのですが、まだ始めていないので、今はコンドームだけ使っています。
振り返ってみると、中絶は私の人生の一部であり、私が経験しなければならなかったことだと思いますが、人生にはいろいろなことが起こります。中絶はつらくて、トラウマになり、論争の的になるものです。でも、同時に、そこには理由があるのです。
初めてセックスしてから1年ちょっとで妊娠してし...
初めてセックスしてから1年ちょっとで妊娠してしまいました。最初は運が悪かっただけだと思っていたのですが、中絶クリニックでいろいろな情報を得て、実は妊娠は簡単に起こりうるのだとわかりました。私と彼氏は避妊のためにコンドームを使っていましたが、いつも使っていたわけではありません。最初、妊娠したと思った時期があったのですが、月経が来たので忘れていました。その後、前回の生理から1ヶ月くらいは気分が悪くて疲れやすく、生理が遅れました。1週間待って、クリニックで検査を受けました。陽性だったとき、私は妊娠を終わらせるかどうか、とても悩みました。でも、若いママになった自分を想像して、若いママになれるかもしれないと思ったんです。彼氏と相談して、どうすればいいか結論がでました。私は妊娠を続けたかったけれど、それは私たち二人に起こるべくして起こったことだったのです。
13歳のとき、生理痛がひどかったので医者に行った...
13歳のとき、生理痛がひどかったので医者に行ったところ、ピルがいいと言われたので、ピルを服用しました。7年間もピルを飲んでいたので、本当に長い期間だったと思います。14歳の時に初めて長く付き合った彼氏ができました。5年間付き合いましたが、その間もずっとピルを飲み続けていました。別れてからも飲み続けました。今は別の彼氏とつきあっているのですが、6ヶ月ほど前に「このピルを毎日飲み続けるのは長すぎる。自分の体の中に薬物を入れたくない」と思ったんです。私の身体がホルモン剤を休む必要があると感じたので、服用をやめました。パートナーとはコンドームを使うことにしていたのですが、1つ破れてしまい、その時はキャンプに行っていたのでどうすることもできず、「モーニングアフターピル」を飲むのが遅くなってしまったのです。その頃、生理予定日だったので大丈夫だろうと思っていたのですが、運が悪かったのか、妊娠してしまいました。
大学の最終学年だったので、妊娠を続けられないとすぐに思いました。学生ローンの多額の借金があって、少なくとも数年間は、赤ちゃんを産む余裕もありません。もし子どもをもつなら、すべてを捧げられるようにしたい。この年齢での出産は、私の将来設計と一致しません。新しいパートナーとの生活も安定しないし、仕事も大学も自分一人でやっているような気がして、本当につらいです。母、姉、おばちゃん、彼氏も応援してくれて、自分の選択に満足しています。動揺するかと思ったけど、逆にほっとしました。ただ、適切な場所、適切なタイミングではなかったのです。それが今私の心にある率直な気持ちです。
私は、リング、子宮内避妊用具ミレーナ(子宮内避...
私は、リング、子宮内避妊用具ミレーナ(子宮内避妊システム:IUS)を使っていたのに妊娠してしまい、中絶を考えました。私は28歳で、幸せな結婚をし、キャリアを積んでいて、30代前半に子供を持つ予定でした。結果的に、妊娠は子宮外妊娠で、手術で取り除かなければならなかったので、中絶する必要はありませんでした。しかし、もし私が中絶を望めば、安全で合法的な中絶ができる国に住んでいることに、とても感謝しています。これは私が持つべき不可欠な権利であると強く感じています。状況や選択肢のなさから母親になることを強制されるのは絶対に嫌です。
私は宗教的な背景があり、19歳で結婚しました。その...
私は宗教的な背景があり、19歳で結婚しました。その半年後、コンドームが中で外れてしまい、妊娠してしまいました。当時、私は大学に入学したばかりで、子どもが欲しいかどうかもわからない状態でした。さらに、また、当時は慢性うつ病で、今はその診断はないのですが、母は私に妊娠の継続を迫り、夫は何のサポートもしてくれませんでした。出産から1年後、私は産後うつ病と不安神経症と診断されました。夫とは別居し、新しい人と付き合い始めました。
生理不順で生理周期をうまく管理できず、再び妊娠したとき、私は即座に中絶したいと思いました。第一子をこの世に生んだことに毎日罪悪感を感じています。たとえ、私と彼の父親が彼を限りなく愛し、共同養育に成功していてもです。特に今の交際相手は博士号取得のために離れて暮らしているので、もう一人の子どもにそんなことをするわけにはいきません。
女性病院を利用できたことは、素晴らしい経験でした。誰もが本当に協力的で、批判的ではありませんでした。私は薬による中絶を選択し、私が予約を待ち、ひどいつわりに苦しんでいる間、交際相手は数週間一緒にいてくれました。前夫も、私が体調を崩している間、息子の世話をしてくれて、妊娠が分かった時にも一緒にいてくれたので、とても助かりました。私が中絶したことを母に話すことはできないと思いますが、それが私にとって正しい決断であったことは間違いありません。
体調を崩したり気持ち悪かったりしていました。...
体調を崩したり気持ち悪かったりしていました。子どもが2人いるので、すぐに妊娠を直感しました。ばかでした。しばらく放置して妊娠が進んでしまったけれど、だんだん実感がわいてきて、もっとちゃんと考えようと思いました。相手の男性のこと、そして私と一緒に住んでいない、私の母親と一緒に住んでいる2人の子どものことを考えました。私の子どもは13歳と14歳で、今の彼は27歳でした。彼にとっては初めての子どもだったのですが、彼は酒に溺れたりしていました。彼はそういうのは止めるつもりだと言いましたが、妊娠にはぜんぜん関心がないようでした。お酒が入ると、「ああ、俺は父親になるんだな」とかなんとか言うんですが、お酒を飲まないと、二言も口をきかないのです。だから、これはうまくいかないなと思いました。それで結局、ぎりぎりで決断したのですが、中絶したくない気持ちと、したい気持ちが半々でした。自分で決めたのに、次の瞬間には気持ちが変わったりして、なかなか決心がつきませんでした。本当に辛かったです。で、早く決めないと、ロンドンに行かせられないとか中絶できないとか言われていたのです。
ある男性と数ヶ月間、何気なく付き合っていたん...
ある男性と数ヶ月間、何気なく付き合っていたんです。基本的にコンドームを使っていたのですが、その夜は使わなかったのです。そのあと数日間ストレスが多い時期で、心の片隅で「モーニングアフターピルを飲もうかな、ちょっと気になるし」と思っていたのですが、飲みませんでした。そして、文字通り生理予定日当日には妊娠が判明しました。私は38歳なので、生理や排卵の周期はかなり正確に把握しています。だから、まったくバカなことをしたと思います。でも、すぐに妊娠がわかりましたよ(笑)。その後、すぐにピルを飲めばよかったと思いました。そう、とてもばかでした。他のことでストレスが溜まっていたので、そのことに集中できず、「やっぱりピルを飲むべきだった」と思ったときには、72時間も経っていましたから、正直なところ、すぐに妊娠に気がつきました。
私には、3人子どもがいるのですが、子どもは父親...
私には、3人子どもがいるのですが、子どもは父親と暮らしています。私は家も家族も何もかも失っている間、子供たちと接触することさえ家庭裁判所で争わなければなりませんでした。子どもたちの父親は、私の産後うつや不安感を利用したのです。家を失って、子どもたちに住む場所を提供することができなくなったので、パートナーと一緒にハウスシェアに引っ越しました。2015年8月、私は最後の法廷審問を受け、接触を認められました。パートナーと一度だけアクシデントがあって、その3週間後に妊娠が発覚しました。私たちには中絶以外の選択肢はまったくありませんでした。3人の子どもを第一に考えなければなりませんでした。子どもたちのために1年以上懸命に戦ってきたのに、赤ちゃんを産んだらそれがすべて水の泡になってしまう。子どもたちは私を必要としています。中絶の決断身を切られるような気持ちでした。私は自分が中絶をするとは思ってもみませんでしたが、子どもたちが一番大切です。私は、子どもたちとの接触に影響を与えないように、外科的中絶をしました。私は自分の決断を後悔していませんが、今でも涙が出ます。
私の話はとても簡単で、私はこれまでもこれからも...
私の話はとても簡単で、私はこれまでもこれからもずっと子どもをもたない(childfree)のです。元夫はそれを知っていましたが、私が妊娠したことがわかったときの彼の反応は、「もし君がこの子を産んだら、僕らの結婚は終わりだよ」というものでした。私は中絶したかったのですが、それは私の手に負えない選択だと感じていたので、それを聞かされても特にいい気はしませんでした。
グラスゴーからイングランドまで行かなければならないのは、本当に苦痛でした。長旅で、当時は求職者支援金をもらっていて仕事もなかったので、ロンドンでの移動、食事、個人的な処方箋の支払いなど、追加費用がかかり、本当に負担が大きかったです。プラス面では(変に聞こえるかもしれませんが、何事にも明るい面があります)、その時も、その後の数ヶ月間も、元夫が非常に嫌な人間であることを知ることが出来ました。また、二度とあのような経済状態に陥らないように、大学へ行き、まともな仕事をする必要があることも分かりました。
私は今、不妊手術を受けるための手続きをとっています。妊娠したことで、自分がいかに子どもを望んでいないのかがよくわかりました。私は子どもが欲しいという典型的なストーリーに当てはまらないので、少し型破りなのかもしれませんが、中絶したことで、子どもはいらない、これが私の望む人生だと、これまで以上に確信を持つことができました。その確信があったからこそ、元夫と別れ、離婚を求め、大学に行くために300マイル(800キロ)離れた場所に引っ越すなど、それ以来、非常に難しい選択や決断を下すことができたのです。中絶をする自由があることで、自分の心を知るという確信が得られ、とてつもなく解放されたのだと思います。
私は実際に避妊をしたことがありません。 15 歳で...
私は実際に避妊をしたことがありません。 15 歳で初めて性交して数か月はパートナーとコンドームを使用しましたが、すぐやめてしまいました。 私たちは主に膣外射精に頼っていましたが、それはそれまでうまくいっていたので、安全だと勘違いしてしまいました。大学に入るまでの5年間付き合いました。私たちが膣外射精の避妊に頼っている間、私は妊娠しませんでした。2回、彼が膣内で射精したとき、私は「モーニングアフターピル」(緊急避妊薬)を処方してもらいのみました。その二回以外は特に問題はなく何年もそれで通しました。私は自分が実際に不妊なのではないかと思っていたので、それを医者に診てもらう予定にしていました。
大学在学中、現在のパートナーに出会いました。 避妊をしていませんでしたが、すぐに妊娠してしまったので、相性がよかったのだと思います。 私は自分が妊娠していることを知って非常にショックを受け、中絶するという難しい選択をしました。私はずっと子供が欲しいと思っていたし、不妊の心配もしていたのです。パートナーだけでなく、姉や友人と話すことはとても役に立ちました。 彼は私が出産を希望するのではないかと心配していました。 大学在学中で、21歳で子供を持つことなんてまったく人世の計画になかったので、選択肢は一つでした。とはいえ手術後もまだかなり動揺していました. それは間違いなく私にとって正しい決断でしたが、気持ちを整理するのは難しいです。ほんとうに大きな出来事ですから。
17歳ではじめて性行為をしてから数年間はコンドー...
17歳ではじめて性行為をしてから数年間はコンドームとピルを使っていました。半年ほどインプラントもしましたが、不正出血が嫌でピルに戻りました。
妊娠したのは、体調が悪かったのと、ピルが効かなかったからだと思います。妊娠する前は中絶なんてぜんぜん考えたことがありませんでしたが、妊娠するのは簡単なことなんですね。
私は診察の前にカウンセリングを受けましたが、それは本当に助けになりましたし、ただ誰かと話をするだけでよかったです。私が中絶を決意したのは、経済的に安定していなかったことと、赤ちゃんを産むにはまだ若すぎると思ったからです。今となって考えると、妊娠について考えることは完全にシャットアウトして、自分の身に起こった現実的な出来事として考えられなかったと思います。私はただ自分の人生を歩むために、そのことを過去のものにしてきました。今、私は避妊にとても気をつけています。次に妊娠がわかったときには、妊娠を心から喜べることを願っています。
ホルモンバランスが悪いので、子どもをもてる可能...
ホルモンバランスが悪いので、子どもをもてる可能性は低いと言われていました。だから、18歳で妊娠したとき、当時のパートナーは妊娠の継続を望みませんでしたが、妊娠の中断はできないと思いました。パートナーは子どもが生まれてから私のもとを去りましたが。次に妊娠したとき、また父親がいない状態になるだろうと思いました。私はひとり親で、毎日毎日いっぱいいっぱいです。私が中絶を選んだのは、娘のQOL(クオリティ・オブ・ライフ)を損ないたくなかったからです。経済的にも、精神的にも、そして感情的にも、それは大変なことで、すでに経験しているので、それがすべて現実におこることが当然わかっています。ただ、本当に中絶が良かったのだと思います。私は間違いなく、正しい決断をしたのです。娘のことが最優先事項であり、娘が良い生活の質を保ち続けられるということ、そして私たちが快適に暮らせるということが大切なのです。
11ヶ月前に娘が生まれました。父親は家庭的な人で...
11ヶ月前に娘が生まれました。父親は家庭的な人ではなくて、私たちを必要としておらず、出て行きました。避妊のことは考えていませんでした。彼が出て行った翌週、私は産後うつ病と診断されました。
その数ヶ月後に今のパートナーと出会いましたが、避妊のことは全く頭にありませんでした。妊娠出産したあとは妊娠しやすいと聞かされていたのに、本当にバカでした。生理が止まり、乳房が痛くて重くなり始めたその時、検査薬を試したら、太い線が2本、私の目に飛び込んできました。今はまだその時期ではありません。パートナーは妊娠を知らないし、その方がいいと思う。私は肉体的にも精神的にも準備ができていませんし、中絶は私自身の選択だからいいのです。
結婚して5年、子どもが1人いて、前からもう1人産...
結婚して5年、子どもが1人いて、前からもう1人産むつもりでした。妊娠するまでには時間がかかりましたが、2回目の妊娠は10週目で流産してしまったので、わずか1ヶ月後に再び妊娠していることが分かったときは奇跡のような気がしました。妊娠初期の超音波検査では何の問題もなく、20週目の検査が終わるころには、勤務先も含めて皆に妊娠を伝え(いずれにしても隠せない)、いつ、どのように産休を取るか計画を立てていました。超音波検査は不安でしたが、きっと大丈夫だろうと思っていました。しかし悲しいかな宗ではありませんでした。胎児は脳、心臓、腎臓に障害があり、命にかかわるものでした。あと19週間も妊娠を続け、生まれても数時間も生きられないかもしれない、痛みで苦しむかもしれないと思うと、妊娠を終わらせたいとすぐに思いました。私たちをケアしてくれたスタッフの方々の優しさと共感には感謝してもしきれません。彼らは私たちを一度も批判せず、困難なプロセスの間ずっと私たちの手を握っていてくれました。自分と家族にとって最善の選択をすることができ、中絶が犯罪にならない国に住んでいることに、私は心から感謝しています。今でも息子のことを思うと悲しくなりますが、私たちが下した決断に後悔はありません。
私と夫には二人のかわいい子どもがいます。下の子...
私と夫には二人のかわいい子どもがいます。下の子は15カ月です。1人より2人の方が大変でしたし、私の母の体調がとても悪いことのほか、他にもいろいろな困難がありました。私たちはコンドームを使用していましたが、おそらく十分な注意を払っていなかったのでしょう。妊娠に気づいたとき、私は青ざめ、夫も不安になりました。当時、そしてこれからも3人の子どもをもつことは、私たちの関係や家族に大きな負担をかけることになり、子どもたちの生活もより困難なものになると思いました。私の年齢(41歳)では、この先、もう子どもをもつことはできないでしょうから、とても難しい決断でした。中絶の過程も大変でした。妊娠初期の中絶薬による中絶は、忘れもしない以前の流産の記憶を呼び起こすものでした。しかし決断は正しく、後悔はしていません。
私は20歳の時に初めて中絶をしました。当時は留学...
私は20歳の時に初めて中絶をしました。当時は留学中で、異国の地で一人ですべての段取りをして手術を受けました。今思えば、自分の強さを誇りに思います。その後、23歳のときに再び妊娠しましたが、そのときはもっと大変な思いをしました。子宮外妊娠の恐怖と中絶薬での中絶の失敗をBPASがサポートしてくれて、その数週間後に外科的中絶を受けることができました。本当によくサポートしてもらい、自己肯定感や自分の身体との関係も強まりました。
私たちは望んで妊娠し、妊娠をとても喜び、胎児は...
私たちは望んで妊娠し、妊娠をとても喜び、胎児は男の子とわかっていました。20週目の超音波検査で重度の心臓奇形と診断されました。バーミンガム女性病院の緊急の診察予約をして、心臓外科医と専門医の診察を受けましたが、診断は当初より悪く、この子は大人になるまで生きられないし、出生時の手術で助かる可能性は極めて低いというものでした。この子を死なせるという決断には胸が張り裂けそうでした。精神的な痛みは一生続くでしょうし、毎日この子が恋しくなりますが、この子が苦しむこともなく、切り裂かれることもなく、機械で生きるということもなかったので、正しい決断だったと思っています。私の妊娠への葛藤、胎児の奇形、妊娠中絶、死後の処置は地獄のようで、再び妊娠することもまた地獄のようでした。しかし次に娘が生まれて、暗闇を乗り越えて光がやってきました。人々はジャッジできますが、経験はすべて違っていて、女性は予定外の妊娠という理由だけで中絶しているわけではありません。女性たちは虐待、レイプ、更年期障害について発言していますが、妊娠中絶/妊娠中断のスティグマに今も怯えているのです!
中絶法がなければ、私は今2歳半の子どもがいたでし...
中絶法がなければ、私は今2歳半の子どもがいたでしょう。私は今16歳で、精神病があり、A判定で、結婚もしていません。
私は21歳の時に妊娠しました。私は好きな人と交際...
私は21歳の時に妊娠しました。私は好きな人と交際しており、数年間迷った後、大学への入学許可を得たところでした。5ヶ月後に入学する予定でした。夜に遊んだ後、私たち数人はお金を持ってないという理由で家までのタクシーから降ろされ(当然ですよね・・・)、パーティのあとみんなで私たち(両親)の家に来ました。3人(1人は友達、2人は男)です。ソファの隅で眠ってしまったのを覚えています…私が目を覚ました時… 私はベッドの上にいて、そのうちの一人が私とセックスを始めていました…私はまだ意識が遠のいていて、男が私の彼氏を思い出させるようなことを言ったときに初めて何が起こっているのかに気づきました…私はモーニングアフターピルをもらって、それが起こらなかったことにしようとしました…。しかし、それはうまくいきませんでした...私が妊娠していることに気づいたとき、私は自動操縦みたいになりました...再び私はそれが起こっていなかったふりをしたくなったのです...私は起こっていることを処理できませんでしたし、すべてがうまくいくことを望んでいました... 私は一緒に来た一人の友人に伝えました... 彼氏に隠す罪悪感で私はおかしくなりそうでした... 私は摂食障害になりました...。 そして、「良い人」であろうと努力することに固執するようになりました・・・約3年後、私はもうそれを自分の中に留めておくことができませんでした…私は彼に言わなければなりませんでした…彼は思った通りいい人でした…しかし時間が経つにつれ、私たちの関係は壊れていきました…私は自分がすべきことをしたと思います…しかし私は今でもそれが起こらなかったらよかったのにと思います…。
私は深刻な精神疾患を抱えていて、私も夫もそれに...
私は深刻な精神疾患を抱えていて、私も夫もそれに気づいていませんでした。私は精神病を患い、長期入院を余儀なくされました。夫は2人の子供を抱えて単身赴任中で、私は精神的にも肉体的にも、そして経済的にも余裕がありませんでした。2回目の入院の健康診断で、妊娠が発覚しました。精神科の病院に入院しており、たくさんの薬を服用していたので、私も夫も主治医も、中絶するという選択肢は明らかでした。私は3日間の休暇をとって病院を離れ、中絶手術を受け、それを自分を責める別のツールになりました。(私は統合失調症なのですが)徐々に精神病から抜け出しましたが、中絶が私や夫、そして子どもたちにとって最善の方法だったと気づきました。その3年後に妊娠し、当時は寛解期だったこともあり、もう一人の男の子の親になることができました。子どもたちは現在、20歳、26歳、29歳です。この子たちのいない人生は考えられませんし、中絶したことに後悔はありません。もし妊娠を続けていたら、私は家族も精神状態も失っていたでしょう。
私は幸せで、恋に落ち、彼氏と一緒に暮らしていま...
私は幸せで、恋に落ち、彼氏と一緒に暮らしていました。私たちは赤ちゃんを産む準備ができていませんでした。赤ちゃんができたとわかったときには、わくわくしたいです。
怖くて誰にも言えなかったし、その責任も果たせな...
怖くて誰にも言えなかったし、その責任も果たせなかった。今でも暗い秘密になっています。
私は17歳で、高校最後の年でした。彼氏と別れたば...
私は17歳で、高校最後の年でした。彼氏と別れたばかりの時に妊娠がわかりました。私たちは妊娠しないようにできることはすべてしていました。私はピルを飲んでいたし、セックスするときはいつもコンドームを使っていたのです。経済的にも精神的にも、17歳の私に子供を育てる能力はありませんでした。私自身、まだ子どもでしたから。
今、私は20歳ですが、できなかったかもしれない経験をすべて考えてみると、自分の選択を後悔していません。いつか本当に子どもが欲しいと思うし、妊娠の知らせに恐怖や悲しみではなく、ワクワクするような気持ちになるのを待ち望んでいます。
私は今、妊娠3ヶ月です。アクシデントでした。私の...
私は今、妊娠3ヶ月です。アクシデントでした。私の元彼はすぐに逃げ出し、一切のサポートを拒否しました。私は中絶したかったのですが、まだそのお金がありません。ジンバブエでは中絶は違法で、ヤミ中絶で多くの人が死んでいます。医者に頼むには350ドル払わなければなりません。その違法性から医者は自分の免許を危険にさらすことになります。私はこの赤ちゃんを望んでいないんです。
私は、そうなる前から決意していたのです。23歳のと...
私は、そうなる前から決意していたのです。23歳のときに妊娠しましたが、産むことはできないと思いました。最悪だったのは、肉体的なトラウマではなく(化学的な方法がうまくいかず、手術を受けなければならなかったので、それは非常にショックでした)、精神的なものでした。一日中仕事をして、夕方に手術を受け、翌朝には何事もなかったかのように仕事に戻らなければならなかったのです。友人はずっとそばにいてくれましたが、家族はこのことを全く知りません。
私は23歳で、2007年、つまりリーマンショックの始...
私は23歳で、2007年、つまりリーマンショックの始まりの時期でした。デポプロベラの避妊注射を打っていたのですが、この薬の副作用で惨憺たる状態になりました。私は自分の体を休ませることにしました。その決断の後、私は仕事を解雇され、健康保険も失いました。食料品を買うのがやっとで、生きていくのに必死でした。2007年3月に妊娠が判明し、13週目だと言われました。1年以上生理が来なかったので、妊娠しているとは知らず、それが普通だと思っていました。
私は最悪の恋愛をしていて、とても落ち込んでいました。赤ちゃんはもちろん、自分のケアもままならず、産めないと思っていました。経済的な危機のさなかにある妊婦を、誰が雇うというのでしょう。
私は妊娠していたので、2日続けて中絶クリニックに行かなければなりませんでした。最初の日は彼氏が来てくれたのですが、学校を休んでいる私をずっとけなしました。中絶費用は彼氏が拒否したため、私の両親が支払わなければならず、私は仕事を見つけることができませんでした。彼は2日目には戻ってこないし、その後も私の様子を見ることさえ拒否しました。翌日は母も一緒に来なければなりませんでした。私は心の底からその子を産むことはできないと思いました。
中絶は簡単な決断ではありません。時には必要な決断であることもあります。そのような状況にあったことは悲しいし、そのような決断をしなければならなかったことも悲しいですが、決断してよかったと思います。自分の体をどうするか決める権利を持っていてよかった。
(アメリカより投稿)
妊娠がわかったのは、22歳のときでした。私は教師...
妊娠がわかったのは、22歳のときでした。私は教師の資格を取ったばかりで、まだ最初の教職には就いていませんでした。パートナーはきちんとした職に就いていましたが、長期にわたる重度のうつ病から回復中で、彼は年老いた母親と同居し、私は難病と診断された祖母の介護に当たっていました。私たちはとても愛し合っていて、いつか子どもを持ちたいと願っていましたが、経済的にも生活環境的にも、子どもを育てる環境が整っているとは言えませんでした。子どもにはできるだけ良いスタートを切らせてあげたいと思うのですが、当時はそのような機会ではありませんでした。
妊娠は大変なことで、感情の起伏が激しくなることも予想していませんでした。常に体調を崩し、疲れていました。パートナーと親友にしか話していなかったので、信じられないほど孤立していました。自分の中でヒトが育っていることをますます意識するようになり、体の隅々まで母性本能が働いて、何としてでも守ろうとしました。パートナーは、何とかなる、何とかなると言ってくれましたが、本当に選択肢がないことは分かっていました。中絶することも怖かったですが、子どもを育てることはもっと大変なことでした。私は自分の決断を疑ったことはありません。
私もパートナーも運転ができなかったので、電車でクリニックに向かいました。しかし、スタッフの対応の悪さに戸惑うばかりでした。ただ一人、私のことを心配して涙を拭いてくれた看護師さんがいました。目が覚めたとき、私は泣いていた。その後、固い木の椅子に座り、乾いたサンドイッチを食べながら、テレビで子ども向けの番組を流している無神経さに、自分がこんな目にあったことが信じられませんでした。私は一人で急な階段を下り、パートナーが座っている待合室までよろよろと歩いて行きました。帰りのラッシュアワーの電車では、痛みと混乱のあまり、立っている通勤客を気にすることもできず、3つの座席にまたがって横たわっていました。誰も動けとは言いませんでした。
翌日、重荷を下ろしたような気持ちになりました。気分の悪さや疲れはもうありませんでした。生まれてくる子どもを守ろうとするホルモンの本能は消え、私は自分の決断に完全に納得していました。あれから6年、私は一度も後悔したことはありません。ほとんどの時間は、中絶をしたことさえ忘れています。自分のためだけでなく、子どものためにも、正しい選択をしたと思っています。その子にふさわしい質の高い生活を提供することはできなかったのですから。
私の唯一の困難は、この話題がいかにタブーであるかということです。私はまだ4人にしか話していません。最も古い友人でさえ知りません。中絶を経験しながらも、そのことに触れていない人が他に何人いるのだろうと考えさせられます。もっとオープンに自分の話をし、タブーを破る手助けができればと思いますが、スティグマという偏見を恐れています。私たちが皆、自分の経験について正直に話せば、変わるかもしれませんね。
私は恥じてはいません。後悔もしていません。でも、まだ自分から名乗りを上げる勇気はありません。
(アメリカから投稿)
息子が1歳になって間もなく、再び妊娠しました。私...
息子が1歳になって間もなく、再び妊娠しました。私は長期にわたる持病を抱えており、妊娠は私自身にとっても胎児にとっても危険なことなのです。私は息子の幸せを考えなければなりませんでした。そして、もう一人子供を持つことのリスクは、自分自身を非常に悪くすることに見合うものなのでしょうか?
私は誕生日の3日後に中絶を行い、1週間後には妊婦や幼い子供をよく目にする職場に復帰しました。復帰初日、新生児を連れた女性が同僚と話をするために上がってきたとき、私は人の邪魔にならないように泣きながら過ごしました。
特に最近、私の健康状態からこれ以上子どもを産めないだろうと言われたときは、罪悪感と自分自身を疑う気持ちが大きくなりましたが、自分と息子にとって正しい決断だったと思います。
私は以前、中絶に反対していました。それは、私の...
私は以前、中絶に反対していました。それは、私の家族がキリスト教とカトリックの信条を持っていたからです。母は、中絶は殺人だと言い、父は、神以外に命を奪う権利はない、といっていました。私はそれを信じて育ち、中絶をした女性を批判していました。私は17歳のとき、もし妊娠したら、何があっても子どもを産みます、中絶は間違っているから、と言いました。そのような信念を持つことがどれほど間違っているか、そしてそれがどれほど自分自身や自分の魂にダメージを与えるものであるか、私はわかっていなかったのです。私はもうどの宗教とも無縁です。時代遅れで、間違っている宗教があることに気づいたのです。宗教が非難するような選択をする他人を批判することもなくなりました。私は中絶を受け入れるのに苦労しましたが、中絶を必要とするようになりました。最初に妊娠したときは、突然のことだったので、妊娠を維持するつもりでいましたが、その後、私の身体は悪くなり始め、健康状態も良くはなりませんでした。それが普通だと思っていたのですが、命に関わることが判明し、自分を守るために中絶するか、自分の命と赤ちゃん、その両方を失うリスクを冒すかの選択を迫られました。結局、私は中絶することを選びました。それは、今までで一番難しい決断でした。中絶はいけないことだと信じて育ったので、正直言って、中絶という現実に対処するのは大変でした。私はさらに2回妊娠しましたが、1回目も2回目も健康上のリスクがあったため、そのたびに中絶することを選択しました。経済的にも精神的にも準備ができていなかったのです。私はPTSDを患っており、自殺願望もあります。私のような人間は、少なくとも回復するまでは子どもを持つべきではな いのです。中絶することはトラウマになるかもしれません。しかし、誰かが中絶は必要ないと思っているからと言って、中絶をするように誘導されたり、罪悪感を感じたりするようなことがあってはなりません。私が一番腹が立つのは、「子どもを産めない女性もいる」ということです。養子縁組というものがあります。家族や家と呼べる場所を持たない子どもたちがたくさんいるからです。いつか、準備が整っていない場合や、リスクがある場合には、中絶という選択が必要であり、個人の権利であることを、皆が受け入れられるようになることを願います。
私は22歳で、幼い頃からの夢だった母国を離れるこ...
私は22歳で、幼い頃からの夢だった母国を離れることを実現したところでした。イギリスに来て最初の1週間で、私はある青年と出会い、交際を始めました。2ヵ月間付き合ってから、クリスマスには帰国しました。実は手術を受けることになっていて、手術の2日前に医者の診察を受けなければならなかったのです。そこで、妊娠していることが判明し、人生で最も衝撃的な瞬間でした。二人とも否定しているようなところがあったのですが、事実を聞いたときはショックでした。子供を産むのは無理だとわかっていましたし、それはとても難しいことでした。一番恐ろしくて辛かったのは、両親に話すことでした。特に父はがっかりしていました!遠くへ引っ越して、妊娠して帰ってくるなんて、クリスマスに望むようなことではありません。でも、私の両親はとても理解してくれて、母も19歳のときに中絶したと言ってくれたのでよかったです。「もし子供ができたら、家も食べ物も服も与えてあげたいし、夫と一緒に仲良く暮らしたいとずっと思っていたの」。それはまさに私の考えだったし、両親はそのように私に全てをくれたし、なにより大事だったのは両親の愛でした。すべての子どもがそのように扱われるのに値するのだし、もしそうしたものを提供できないと思うなら、提供できるようになるまで待つのは正しい選択だと思います。
私はうつ病の既往症があり、パートナーは慢性的な...
私はうつ病の既往症があり、パートナーは慢性的な痛みと運動機能、健康上の問題を抱えていて、以前の結婚していた相手とのあいだに子どもが2人います。私たちが住んでいるのは小さなアパートで、私たち夫婦だけでも手狭なのですが、彼の前妻との子どもが遊びに来たりすると十分なスペースがありません。私の家族は虐待、精神疾患、身体疾患の問題を抱えており、そのような環境で育ち、その遺伝子を受け継ぐ子供がどのようなものか、私は身をもって知っています。私と同じような思いを誰にもさせたくないので、私は子どもが絶対に欲しくないと以前からはっきり言っています。子供たちが育つのに適切な環境を与えることができないし、精神疾患や身体疾患、薬物乱用などの遺伝的素因があることを知りつつそれを受け継ぐなんてことを正当化できません。経口避妊薬ピルによる避妊は鬱病の引き金になるので使えないし、コンドームは壊れるし、IUDも試しましたが信じられないほど痛いし(セックス中に痛くて泣いてしまうようでは、全然楽しくありません!)、尿路結石の再発のため、ペッサリーはやめた方がいいと言われました。また、子宮頸管の位置の関係で、子宮頸管キャップを使用することもほぼ不可能なようです。不妊手術を希望していたのですが、30代で子供を産んでいないため、NHSでは選択できないと言われました。だから、避妊していなくて妊娠してしまったんです。言い訳にはならないし、コンドームなら使えたはずだけど、あの時は二人ともかなり飲んでいたし、避妊せずにセックスしたのは一度だけで、モーニングアフターピルだって飲みました。以前にもコンドームが壊れたときに何度もモーニングアフターピルを飲んでいたので、大丈夫だろうと思っていたんです。でも、だめでした。私が中絶を受けに行ったマリー・ストーブス・センターは、信じられないほど素晴らしいものでした。スタッフはとても優しくて、環境は安全で、診療の流れも★この状況で起こりうる限りトラウマにならないようなものでした。中絶から1年後、私は再びNHSに不妊手術ができるかどうか尋ねました。私は中絶をしたので、NHSは不妊手術ができることに同意してくれました。しかし、私は事前に面接を受け、当日は外科医と個別に話をする必要がありました。私が若すぎる、子供がいない、自分の決断に自信がないという懸念が残っていたため、2次処置から最終処置に変更されました。今だから言えますが、避妊手術を受けたことは私に起こった最高の出来事の一つです。もう、体調を崩したり、確実に効かない避妊具と戦わなくていいし、うっかり妊娠してしまうのではないかとパニックになることもない。とても安堵しています。
私は19歳の誕生日の2週間前に中絶をしました。私は...
私は19歳の誕生日の2週間前に中絶をしました。私は大学に入ったばかりで、新しいボーイフレンドができました。12月初旬のことで、それまで性的な関係を持ったことがなかったため、まだピルを服用していませんでした。私はかかりつけの医師に予約を取っていました。コンドームを使っていたのですが、この時、はじけてしまったのです。薬局にモーニングアフターピルを買いに行きましたが、72時間の期限切れで、ご存知の通り、遅くなればなるほど効果が薄れるのです。 クリスマスに実家に帰ったとき、バスに長く乗っていると気分が悪くなることに気づき始め、帰りの電車は本当に不愉快なものでした。電車が狭かったので、あまり深く考えなかったのですが、通常であれば、後ろ向きに座ると気分が悪くなるので、普通でも避けていました。また、おしっこの回数が多くなっていることにも気づき始めていました。 大学から帰ってきたとき、友人に説得されて妊娠検査薬を使ってみました。毎月少しずつ出血していたので、それほど心配はしていませんでした。(スポッティング((少量出血))という言葉は聞いたことがありませんでした)。 妊娠がわかった日の夜は、とてもひどいものでした。私の友人も偽陽性でないことを確認するために妊娠検査薬を試して、できる限りのことをしました(彼女はその時処女でした)。この時、私は彼女にかなり失礼なことをしました。彼女もおしっこで検査をしようとしてくれたんです。 翌日、モジュールリーダーの一人に話すと、彼女はいくつかの指導をしてくれました(そして、必死で終わらせようとしていた大量の課題の延長もしてくれました)。そして、学生バーで彼氏に会いました。 それは、本当に決断したわけではありませんでした。大学に入ったばかりで、それをあきらめるわけにはいかなかった。母親になりたいと思ったことはなかった。どうしたらいいんだろう?養子縁組もダメだった。臨月を迎えると、実の母親に言うことになるでしょうから。その時はまだ、言いませんでした。私はかなり緩やかな宗教的背景を持っていますが、中絶は母が絶対に同意しないことの一つです。この問題について確信があったにもかかわらず、私はクリニックに電話するのを1ヶ月近く待ちました。中絶したいとは思っていても、そのことを考えると怖くてたまらなかったのです。この間、友人はずっと「持っていれば大丈夫」「3人で管理すればいい」と言い続けてくれた。彼女は私に選択肢を知ってもらうためだと言いますが、私が手術を受けることを私と同じくらい恐れていたからだと思います。 最初の電話は予想通りうまくいき、電話での相談もほぼ同じようなものでした。数日後、私はボーイフレンドと電車を2本乗り継いでストラットフォードに行き、そこで超音波検査を受け、看護婦さんの7いくつか質問に答えました。彼女は、もし私が外科手術を避けたければ、数日以内に中絶薬を飲まなければならないと言いました - そして私は確かにそうしました! そして、リッチモンドにもっと近いクリニックがあることを教えてくれ、翌日の予約をとってくれました。 私はプロセスがこんなに早く終わるものとは思っていませんでしたが、座って待つのは絶対に嫌でした。 翌日、私たちはリッチモンドのクリニックに行き、中絶薬の第一段階を受けました。私はミフェプリストンという錠剤を飲み、血液型がO型なので足の甲に注射をしました。翌日私たちは再び戻り、私がミソプリストンを飲みました。クリニックまではバスで行ったのですが、妊娠が進むにつれて乗り物酔いがひどくなり、家まで30分以上かかるので、タクシーで帰ると彼氏に伝えました。もし、ストラトフォードに戻らなければならなかったら、どう対処していたか想像もつきません。 クリニックで飲んだ痛み止めを吐くために、帰りのタクシーを途中で止めなければなりませんでした。この夜、どの痛み止めも効かなかったので、痛み止めはあまり重要ではありませんでした。 前述の友人は2時間ほど滞在し、湯たんぽを貸してくれた。もう一人、同じアパートに住む友人も来てくれました。彼は、私が酒を飲むのを止めた時に、妊娠していることを知ったのです。彼はその場にいる間、ずっと私を睨みつけていましたが、道徳的な判断というよりは、その状況に対しての判断だったと思います。帰宅後すぐに母親に電話をかけました。しばらく話していなかったので、話す必要がありました。私はそれが悪いタイミングであったことを彼女に言いました。母は、翌日のバレンタインデーにボーイフレンドが私をお姫様のように扱ってくれることを願っていると言っていました。 クリニックで言われた以上の出血があり、4時間後に以前クリニックで指示された通り999に電話をし、救急車が来てくれました。診察まで3時間くらい待ちました。この間、ようやく眠ることができた。違う錠剤を2セットもらい、朝6時ごろに退院した。まだ暗くて、バレンタインデーの思い出どころではありませんでした。病院から歩いて2分のところにある彼氏の家に向かいました。その後、彼と3日間を過ごし、バスルームのシンクで血まみれのニッカーズを洗って、彼の同じ階の2人を気味悪がらせました。 私は今20歳ですが、かなり前に進んだような気がします。この件と、その前後に起こった他の件で、カウンセリングに行き始めたところです。同じ境遇の人がいないので、自分がどう対処しているのか、あまり参考になりません。自分のしたことに後悔はしていません。罪悪感を感じてないことに罪悪感を持っているだけです。
23歳のとき、妊娠検査薬に表示された2本の線を見た...
23歳のとき、妊娠検査薬に表示された2本の線を見たとき、私は打ちのめされました。私はロースクール在学中に肉体的、精神的な嫌がらせやセクハラを受け、それ以来、何度も薬を飲み、カウンセリングを受けてきました。私はいつもストレスにさらされていて、生理も不規則でした。ボーイフレンドと性的関係を持ち始めてから1年が経ちますが、常にコンドームをしていました。ピルは飲んでいませんでした。どうして妊娠してしまったのかわかりません。 生理はいつも通り遅れていて、私は緊張していました。私はいつも気分が悪かったです。私は妊娠検査を試すことにしました。そして、2本の線が現れたのを見たとき、恐怖心が湧き上がってくるのを感じました。私は3回検査しました。どうしたらいいのか、まったくわかりませんでした。私はロースクールの最終学年におり、母親になることは「やることリスト」のどこにもなかったのです。当時付き合っていた彼に、妊娠検査のことを話した。私たちはいろいろありましたが、まだ "友達 "でした。彼の最初の返事は「なんでそんなに妊娠に確信があるんだ」。その次は、「本当に、僕に関係を続けさせるためのでっち上げじゃないのか?」。これらは、私が一番聞きたくなかった言葉でした。私はすでに、匿名の人物からネット上で性的な脅迫を受けており、人生において狂気の沙汰を経験していたのです。その匿名の人物は、私の人生について、同級生や友人、さらには私の両親にまで淫らな発言を始めていたのです。私が修士課程で海外の大学に合格すると、すぐにこのようなことが始まりました。そんな中、2本のピンクの線が私に悪夢を見せました。元パートナーにバカにされたことがきっかけで、自分で医者に行くことにしたんです。今にして思えば、なぜ父や母に電話しなかったのでしょうか。応援してくれるはずなのに、伝える勇気がなかったのです。大学の近くにある有名な医療機関に行くと、彼らが、そのことを軽く考えてはいなかっただろう大学に電話をするかもしれない。そこで、私は大学から離れた場所にある医者に行き、薬を処方してもらいました。私は薬を持って帰ってきましたが、怖くて飲めませんでした。翌日、私は夢の大学に入学できたことを思いだし、気を強く持ちました。それで勇気を出して、薬を飲みました。薬を飲むと具合が悪くなり、週末はホステルで一人療養していました。どういうわけか、私の妊娠と中絶のニュースは周囲に伝わりました。(元ボーイフレンドは、酔っているときに漏らしたかもしれないと言いました)。私のオンラインハラスメントはそれを掴み、何週間も私を拷問しました。毎日、中絶のビデオや、子供を殺す罪を犯したというビデオを送られました。毎日、「アバズレと殺人者」というタイトルのメールが届きました。ある晴れた日、元彼氏が私のところにやってきて、注目されるために全部自作自演したのかと尋ねました。私は打ちのめされました。彼は生意気にも、私の父親に電話して私の中絶について話すつもりだから、そうされたくなかったら、私が嘘つきで嫌がらせや中絶の話をでっち上げているというメールを同級生全員に送れ、と言いました。元彼は、私が親にこのことを知られたくないことを知っていて、親に電話させないようにするために、どんなことでもしかねませんでした。私が要求を飲まないと、父に電話をかけました。私は自分の世界が壊れていくのを見ました。その日、一緒に故郷に向かうように、父が私を迎えに来てくれました。父は何も言いませんでしたが、とても悲しんでいるのが分かりました。 その夜、私はベッドに横たわりながら、ただただ落胆していました。3年前、先輩にセクハラ被害を訴えようと決意した私は、自分に非がないのに多くの同期から叱責され、侮辱されました。そして3年後、私は個人的な決断のために裁かれました。夜が私を飲み込み、24時間後に病院で目が覚めました。私はたくさんの薬を摂取し、命を絶とうとしていたのだ。目を覚ました私に、父が会いに来ました。「なぜ中絶したことに罪悪感を持つのか?何がベストか自分で決めたことだろう。私の唯一の心残りは、その過程に一緒にいてあげられなかったことだ。あなたはこれまで、人生に何が起こっても決してあきらめなかった。今、諦めてはいけない」。 10ヶ月後、私は「旧消防署」に入り、中絶を経験した女性たちの話を読み、聞きました。そして、自分の痛みを声に出す勇気をもらったのです。今にして思えば、私は自分にとって最良の決断をしたのだと思います。それは簡単な決断ではなく、私の人生の中で最も難しい決断の一つでした。そして、その決断に対して、誰も私に嫌な思いをさせる権利はありませんでした。私の国では、女性が中絶について話すのをほとんど聞いたことがありません(中絶率は高いのですが)その理由は、私自身の経験から理解できます。標的にされずに声を上げることなどできるわけがないのです。 この展覧会とこのポータルが私を癒してくれたことに感謝しています。自分だけではないのだと感じさせられました。このような経験をした見知らぬ人たちとのつながりを感じさせてくれ、このことに常に感謝しています。
私は今49歳ですが、中絶をしたのは22歳の時でした...
私は今49歳ですが、中絶をしたのは22歳の時でした。それは、自分自身にとってこれまでで最高の決断でしたし、今でもそうです。私は姪や甥を愛し、世話をしてきましたが、自分の子どもは必要ないと感じていました。 中絶に関しても、他の医療行為と同じように感じていました。私には解決しなければならない健康上の問題があったのであり、合法的な医療行為によってそれを解決したのです。 そのことを後悔したことは一度もありません。私は21年連れ添った夫と、子供のいない幸せな人生を送っています。悩むことも、後悔することも、恥じることもありません。私は、会話の中で中絶の話題になったとき、中絶したことを隠したことはありません。私は中絶を、私と女性にとって実際的な決定だと話します。
13歳の娘と二人で通りを歩いていると、この展覧会...
13歳の娘と二人で通りを歩いていると、この展覧会のボードが目に入りました。見てみようよ、中絶って何だか知ってる?私はこの派手目な娘に尋ねた。どうやら次の学期のカリキュラムで取り上げられるようでした。Tシャツを見て、彼女は私に中絶したかどうか尋ねたので、私は「はい」と答えました。彼女は、手術をしなきゃならなかったのか聞いたので、「いいえ」と答えました。彼女は驚いて、それなら男の兄弟がいてもおかしくないわね、と言いました。私は、いいえ、そんなことはありません、と答えました。私は、あなたとあなたの妹のおかげで成功したのであって、選択の余地がなかったら、成功しなかったでしょうと言いました。それが中絶というものであり、中絶は自分の体に対する自由であって、軽々しく決断できるものではありません。
私は約2年前に中絶を経験し、世界観がガラリと変わ...
私は約2年前に中絶を経験し、世界観がガラリと変わりました。それまで私は、少なくとも自分自身は中絶に反対だと思っていました。中絶をする人を批判するつもりはありませんでしたが、中絶は自分には必要のないもので、不注意や意識しない状態から起こるものだと思っていました。 望まない妊娠をする前、私は5年間付き合っていたボーイフレンドと一緒にいました。彼は面白くて、優しくて、穏やかで、素晴らしいパパになるはずでした。私たちは一緒にいい家に住み、いい車に乗り、二人ともいい仕事をしていて、2年以上避妊をしていませんでした。積極的に子作りをしていたわけではありませんが、1年間妊娠しなかったので、彼が検査に行ったところ、異常なしとの結果が出ました。精子の数も運動量も正常だった。医師は、私たちが長期間にわたって積極的に子作りに励み、成功しない限り、私の検査はできないと言いました。私たちはそれを望まなかったので、そのまま続け、私が問題なのだと思いました。 そして、ある夜、親しい友人から、私のパートナーが1年以上前から私の男性の親友と浮気をしていたことを聞かされました。あまりに詳細で、どれもが嘘とは思えませんでした。当然ながら、私はその夜、対処するためにたくさん飲み、他の人と寝ました。避妊はしなかったのですが、酔った自分はどうせ妊娠できないからいいやと思っていました...日曜日だったので24時間以内に開いている薬局はありませんでしたが、その友人と寝てから約30時間後の月曜日の朝一番にモーニングアフターピルを服用しました。手厚い対応をしているつもりでした、何しろそれまで長い間妊娠しなかったんですからね。 ご想像のとおり、私は間違っていました。 さらに悪いことに、このことが判明したため、私はパートナーと別れ、母の家に戻ってきました。服はゴミ袋に入れ、彼に家も車も保つように言い、母の更衣室のソファベッドで寝ていた時に妊娠が発覚しました。 妊娠を知らずに過ごしたこの2週間、私はこれまで飲んだことのないほどお酒を飲みました。目の血管が破裂するほど泣き叫び、5日間も眠らずに過ごした。 妊娠がわかったとき、私にとってはこれまでで最大の医療事故でした。私は検査をしてから20分以内に予約なしで診察を受けられる病院に行き、すぐに中絶をするように頼みました。もし救急部が私のことを真剣に考えてくれると思ったら、私はそこに行ったでしょう。 他の女性が受けることができるような中絶のサービスを、私は受けられませんでした。私のかかりつけの医師は、中絶を進めることを思いとどまらせようとし、中絶手術に関する多くの古すぎる情報も与え、私は希望するよりも長く待たされ、不必要にひどいつわりとホルモンに対処しなければなりませんでした。病院では、スキャンを待っている間、かわいい赤ちゃんの写真で埋め尽くされた待合室に通されました。プロセスはとても痛く、一時は本当に死ぬかと思いました。私の尊厳は、病院のドアに行く度に剥ぎ取られました。 しかし、少なくとも私は自宅から徒歩圏内のNHS病院(英国の)国民健康保健制度)でサービスを受けることができました。それは多くの人に可能なことではありません。 人々は中絶を選択肢として話しますが、私にとって正しいことはただ一つでした。とても大げさに聞こえますが、当時はとても現実的に、中絶するか自殺するかのどちらかしか選択肢がありませんでした。もし中絶がうまくいかなかったら、死ぬまで自分のお腹を刺すつもりで計画しました。妊娠している間中、この子がどんどん嫌いになっていきました。人生でこれほど激しい憎しみを感じたことはありません。存在すること自体が憎い。自分の人生を歩むのを邪魔するのが憎い。この子が私を動けなくしていることも憎かった。 私の子供は、存在した瞬間から愛され、妊娠中から完全な栄養を与えられ、私のポジティブな考え方からくるエンドルフィンを浴び、アルコールもニコチンも血流に乗らず、モーニングアフターピルは気にせず、父子関係も疑わずに生まれてくるはずなのに、これは私の最初の子供にふさわしい方法ではなかったのです。 たとえ、私がどれだけ酒を飲み、タバコを吸い、極端な感情状態になっていたかによって、この子に取り返しのつかない身体的危害を加えてしまったという事実を乗り越えられたとしても、彼が父親としてふさわしくないということは乗り越えられません。また、私は職場では有期契約でしかなく、現在は母親の更衣室のソファベッドで寝ているという事実もありました。
4月11日、私は妊娠5週3日で中絶をしました。現在12...
4月11日、私は妊娠5週3日で中絶をしました。現在12月9日ですが、妊娠はしておらず、子供という責任がないことが幸せであるのと同時に、毎日毎日そのことを考えています。私は学期を終えていますが、休日に赤ちゃんを産んでいたらと思うと辛いです。私は、いつか物事がうまくいくことを望んでいます。今、私はあまりうまくいっていませんが、治すために努力しています。泣いたり食べたり読んだりして、中絶反対派のポッドキャストや保守的なニュースを聞かないように努力しています。私は自分が愛していると思った男性と選択をした人間であり、真実は人生が続くということです。私の決断を悪だと思う人もいるでしょうが、私はそうではないと思います。私は、適切な時期に適切な場所で子どもを産み、そうすればその子どもは大丈夫だと思いますが、今は子どもをこの世に送り出す適切な時期ではありませんでした。私は子どもを選ぶ人間でもなければ、殺す人間でもない。私はただの女性で、パートナーと慎重で安全であることが不可欠なときに、人生がうまくいくようにと思っただけです。私はもう彼を責めたり憎んだりしません。なぜなら、すべての悲しみと憎しみが私を蝕んでいたからです。一人で抱え込むにはあまりに辛いので、全てを手放します。私は良くなるつもりだし、大丈夫。私の決意は私の決意で、何も後悔していない。私が生きているから後悔しないのだ。私はまだ生きていて、死ぬときは何かをやり遂げた上で死ぬ。一人で恥ずかしい思いをしているのは良くないので、もう黙っているのは止めようと思います。もう恥ずかしくないし、話してもいいと思っています。もしあなたが中絶を経験しているならば、おめでとうとは言えません。でもあなたは愛され、支えられています。私は誰にも相談できず、それが一番つらかったです。
昨年は、1月に抗うつ剤をやめるまで、うつ病と闘っ...
昨年は、1月に抗うつ剤をやめるまで、うつ病と闘っていました。私は素晴らしい新居に引っ越し、素晴らしい新しい仕事に就きました。2月になると、26歳の私は妊娠しました。妊娠6週間と2日で、私は中絶をすることになりました。私は、子供を持つことに対処できないだろうし、その子供に精神的にも経済的にも、私が望むようにしてやることができないだろうと思いました。私は自分自身と健康を第一に考えたのであり、それを後悔していません。
私は16歳で、2月2日に妊娠8週と3日目で中絶を受け...
私は16歳で、2月2日に妊娠8週と3日目で中絶を受けました。彼は妊娠を続けさせたがっていましたが、やめました。彼は中絶に立ち会いたかったようですが、私たちの家族は仲が良くありません。私は両親と一緒に行き、手術の間ずっと泣いていましたが、何も感じませんでした。私は子供は欲しくなかったし、今も欲しくはないのですが、それでも辛い選択でした。両親と一緒にオフィスに行き、母が手術に立ち会いました。私はずっと泣いていましたが、何も感じられませんでした。父は私のことを嫌っていますが、私にはまだ母がいます。彼らは自分たちを責めていますが、ほとんどは私のことです。私は母親になる準備ができていなかったし、彼は父親になる準備ができていなかったのです。
16歳の誕生日に中絶手術のために入院していました...
16歳の誕生日に中絶手術のために入院していました。最初のボーイフレンドができ、直後に初めてピルを手に入れて生理を待ってピルを飲み始めようとしたのですが、生理が来ずに妊娠していました。 子供心に恐ろしかった。夢も野望もあったし、高校も卒業していなかった。 精神的にも、経済的にも、感情的にも、子供を育てる準備ができていなかったし、精神的に虐待的なボーイフレンドだったので、一生彼に縛られるのは嫌だと思ったのです。27歳になった今、愛情に満ちた関係、経済的・精神的な安定、そして子どもに提供できる最高の人生の中で、赤ちゃんをこの世に誕生させることができることを楽しみにしています。
たった1回だったんです! 2月9日までに生理が来るは...
たった1回だったんです! 2月9日までに生理が来るはずだったのですが...その日が来て、生理が来ませんでした。私は仕事でストレスを感じており、ストレスが原因と思われる体調不良も抱えていたので、まさか妊娠するとは思ってもいませんでした。でも、妊娠していたのです。33歳にして初めての妊娠で、若いころは妊娠の可能性を疑っていましたが、あらゆる選択肢を真剣に検討しました。若い頃は妊娠できるかどうか疑っており、初めての妊娠でした。ここに来て、私は男性とはコミットメントのない、ついたり離れたりの関係にあり、仕事は良い仕事に就いていましたが、産休や給料はもらえなかったでしょうし、母からはスコットランドの実家に帰る必要があると指摘されました。友人も家族もとても協力的でした。このような状況で子ども(結局、双子を妊娠)を授かることはできず、家庭崩壊が始まり、さらに両親が別々の国に住んでいるためバラバラになってしまいました。彼も中絶が正しいことだと感じており、私の希望に沿うことを望んでくれました。しかし、最終的には、私がいろいろ考えた末に中絶が必要だという決断を下すことができたので、そのような会話をする必要はありませんでした。それは私の人生で最大の決断でした。1歳、2歳、そして3歳の双子がいたら、私の人生は大きく変わっていただろうと、今でも定期的に考えています。私は、決して生まれてくることのなかった子どもたちのことを決して忘れません。決して。いつか母親になるのが待ち遠しいです。完璧な環境は望めませんが、少なくとも未来の子どもには、最初から愛情あふれる2人の親がいるような関係になりたいと思っています。私はこの決断が自分のものであって本当に良かったと思っていますし、この選択がなかったらと思うと、想像もつきません。
私は18歳までに2度の中絶を経験しました。避妊具を...
私は18歳までに2度の中絶を経験しました。
避妊具を使わずにセックスして、初めて妊娠したのは17歳のときでした。避妊具を使わないのは危険だとわかっていましたが、「まさか自分の身に降りかかるとは思わない」ものです。17歳の若さでとても素朴だったので、妊娠がわかったのはおそらく最も怖いことの一つでした。すぐに母親に話し、最初のショックと(怒りの)後、二人で正しいのは中絶することだろうと判断しました。私は17歳で、大学生で、子供を産む準備ができていませんでした。ネットでクリニックを見つけ、予約を取るために電話をかけました。それはとても簡単で、予約が取れた後は、とても安心したことを覚えています。一刻も早くこの状況を終わらせたかったのです。電話をかけてから約1週間後、母と一緒にカウンセリングに行きました。スタッフは皆とてもフレンドリーで、批判的ではありませんでした。待合室で他の女の子を見かけましたが、自分だけの問題ではないと思い、少し気が楽になりました。この後、私は検査を受け、妊娠6週目であることを知りました。これは薬による中絶を行うには十分な早さでした(この方法は最も簡単な方法だと書いてあったので、私は喜んでいました)検査の後、翌週に行われる治療の予約をしました。薬による中絶のためにクリニックに到着すると、本当に親切な看護師が迎えてくれました。この女性たちがどれほど素敵で、私を本当に安心させてくれたか説明できません。私はとても緊張して、怖くて、早く終わってほしいと思ったのを覚えています。それからベッドに上がり、お腹のスキャンをしました。私はとても早かったので、プローブ(膣の中に入れる小さなもの)を使わなければなりませんでしたが、痛くはありませんでした。それが終わると、最初の錠剤を飲む時間でした。最初の錠剤(ミフェプリストン)は、妊娠の継続を止めるためのもので、小さな錠剤で、水と一緒に飲み込みました。その後すぐに2つ目の錠剤(ミソプロストール)を飲みましたが、これは子宮を収縮させ、流産のように妊娠を終わらせるものでした。看護師と薬の副作用について簡単に話した後、私は痛みに効くコデインの包みをもらい、クリニックを後にしました。
痛み...人々を怖がらせるために言うのではありませんが、私が初めて中絶したときの痛みはひどかったです(2回目の薬による中絶では、痛みはずっと少なく、生理痛のような痛みでした)2番目の薬を飲んでから約1時間後に、生理痛よりもずっと強い痙攣を経験し、家に帰って湯たんぽと母のたくさんの愛と助けを借りてベッドに入りました。痛みはかなりひどくなり、痙攣はとても強く、湯たんぽを100%お勧めします。出血はとても重い生理のようで、トイレに流れるような大量の血の塊がほとんどでした。痛みは眠りにつくまで4時間くらい続きました。翌朝は痛みもなく、元気に目覚めました。ネットで薬による中絶についての恐ろしい話をたくさん読みましたが、私の体験は私が読んだいくつかの話ほどひどいものではありませんでした。個人的には、薬による中絶は最も簡単な中絶方法だと感じました。もちろん、どのような中絶でも多少の痛みはありますが、耐えられるものでした。これが私が経験したことを経験する人の助けになればと思います。あなたはとても勇敢だと思います。
私は18歳までに2度の中絶を経験しました。ピルを...
私は18歳までに2度の中絶を経験しました。
避妊具を使わずにセックスして、初めて妊娠したのは17歳のときでした。避妊具を使わないのは危険だとわかっていましたが、「まさか自分の身に降りかかるとは思わない」ものです。17歳の若さでとても素朴だったので、妊娠がわかったのはおそらく最も怖いことの一つでした。すぐに母親に話し、最初のショックと(怒りの)後、二人で正しいのは中絶することだろうと判断しました。私は17歳で、大学生で、子供を産む準備ができていませんでした。ネットでクリニックを見つけ、予約を取るために電話をかけました。それはとても簡単で、予約が取れた後は、とても安心したことを覚えています。一刻も早くこの状況を終わらせたかったのです。電話をかけてから約1週間後、母と一緒にカウンセリングに行きました。スタッフは皆とてもフレンドリーで、批判的ではありませんでした。待合室で他の女の子を見かけましたが、自分だけの問題ではないと思い、少し気が楽になりました。この後、私は検査を受け、妊娠6週目であることを知りました。これは薬による中絶を行うには十分な早さでした(この方法は最も簡単な方法だと書いてあったので、私は喜んでいました)検査の後、翌週に行われる治療の予約をしました。薬による中絶のためにクリニックに到着すると、本当に親切な看護師が迎えてくれました。この女性たちがどれほど素敵で、私を本当に安心させてくれたか説明できません。私はとても緊張して、怖くて、早く終わってほしいと思ったのを覚えています。それからベッドに上がり、お腹のスキャンをしました。私はとても早かったので、プローブ(膣の中に入れる小さなもの)を使わなければなりませんでしたが、痛くはありませんでした。それが終わると、最初の錠剤を飲む時間でした。最初の錠剤(ミフェプリストン)は、妊娠の継続を止めるためのもので、小さな錠剤で、水と一緒に飲み込みました。その後すぐに2つ目の錠剤(ミソプロストール)を飲みましたが、これは子宮を収縮させ、流産のように妊娠を終わらせるものでした。看護師と薬の副作用について簡単に話した後、私は痛みに効くコデインの包みをもらい、クリニックを後にしました。
痛み...人々を怖がらせるために言うのではありませんが、私が初めて中絶したときの痛みはひどかったです(2回目の薬による中絶では、痛みはずっと少なく、生理痛のような痛みでした)2番目の薬を飲んでから約1時間後に、生理痛よりもずっと強い痙攣を経験し、家に帰って湯たんぽと母のたくさんの愛と助けを借りてベッドに入りました。痛みはかなりひどくなり、痙攣はとても強く、湯たんぽを100%お勧めします。出血はとても重い生理のようで、トイレに流れるような大量の血の塊がほとんどでした。痛みは眠りにつくまで4時間くらい続きました。翌朝は痛みもなく、元気に目覚めました。ネットで薬による中絶についての恐ろしい話をたくさん読みましたが、私の体験は私が読んだいくつかの話ほどひどいものではありませんでした。個人的には、薬による中絶は最も簡単な中絶方法だと感じました。もちろん、どのような中絶でも多少の痛みはありますが、耐えられるものでした。これが私が経験したことを経験する人の助けになればと思います。あなたはとても勇敢だと思います。
私は30歳の時に中絶をしましたが、その時の経験が...
私は30歳の時に中絶をしましたが、その時の経験が忘れられないのですが、毎月何かしらの形でそのことを考えない日はありません。私は今、54歳ですが...
1979年、私は中絶をしました。私は24歳で、16歳に...
1979年、私は中絶をしました。私は24歳で、16歳に結婚し、19歳までに2人の子どもをもうけました。中絶クリニックのカウンセラーに連絡を取り、ベルファストからの最終便でロンドンにたどり着く予定でした。当時は本当に高価なものでした! 私はお金のために懇願し、借り、盗みました。夫にも言わなければなりませんでした。結局、飛行機が遅れたので、ロンドンで一晩、見知らぬ人に泊めてもらうことになりました。クリニックに行き、最終的には私立病院に行きました。私はまだクリニックに半分の料金を借りていますが、彼らは私を追いかけることはありません。中絶は肉体的には全く痛みがなく、スタッフもすばらしいものでした。後悔はありません。それは私と子どもにとって正しい決断でした。
私は20代後半にアメリカで中絶を経験し、現在45歳...
私は20代後半にアメリカで中絶を経験し、現在45歳です。薬による中絶が合法化され、広く利用できるようになる前のことです。私の人生の中で間違った時期、完全に間違ったボーイフレンド。中絶しなかった場合の「もしも」を考えたことは一度もありません。それは私にとって前向きな選択でした。私は今、人生の適切な時期に適切なパートナーとの間に二人の子どもを授かりましたが、彼らは私にとって完全な喜びであり、今でも中絶について後悔はしていません。私は母親になった今、リプロダクティブ・チョイスにこれまで以上に力を注いでいます(それが可能かどうかは別として)。
決して簡単な決断ではありませんが、すべての女性...
決して簡単な決断ではありませんが、すべての女性が自分の身体と人生のために下すべき決断なのです。妊娠がわかったときには、私は幸運にも北アイルランドにおらず、医師や家族、友人と話し合える、協力的で親切な環境にいました。しかし、ここでは、妊娠は禁じられた話題です。私が中絶をしたことを知る人は、パートナー以外にはいませんし、決して話すことができないことなのでしょう。特に年配の人たちは、宗教上の理由から、おそらく彼の兄弟姉妹たちも、私がなぜあのとき中絶しなければならなかったのかを受け入れず、許容せず、理解しないでしょう。今、私には二人の素晴らしい子どもがいますが、その決断を後悔したことは一度もありません。私が後悔しているのは、アイルランドの両地域で中絶を取り巻く沈黙とスティグマ、そして支援の欠如です。それを変える必要があります!
8歳で中絶しました。私には6歳と8歳の娘がいまし...
38歳で中絶しました。私には6歳と8歳の娘がいました。決断するのに1ヶ月かかりましたが、私の結婚は継続できないと思いました。当時はとても幸せとは言えませんでした。その後、何年も罪悪感でいっぱいでした。それを手放すことができたのは、末娘が22歳で妊娠したときです。私は彼女に妊娠を継続するよう勧めました。その時の経験が役に立ったのです。今ではかわいい孫がいます。
私が中絶したとき、中絶クリニックにいる女性は涙...
私が中絶したとき、中絶クリニックにいる女性は涙を流しているだろうと予想していましたが、実際はほとんどの女性が優しく丁寧に扱われ、本当にほっとしているのです。ほとんどの女性は、クリニックに来るまでに自分にとって何が正しいかを知っているのです。パートナーや家族、地域の人々の意見を恐れている女性は、精神的に最も辛い思いをするようです。知り合いに助けを求めることができない女性もいます。
DVから抜け出せないでいました。 再び妊娠し、追い...
DVから抜け出せないでいました。 再び妊娠し、追い詰められました。私はすでにいる子どもの安全を選びました。そしてついにDVから抜け出しました。
私は20歳でした。避妊に失敗し、優しくない彼氏と5...
私は20歳でした。避妊に失敗し、優しくない彼氏と5年付き合ったところでした。 私は3年間の職業訓練の最中でした。それでも苦渋の決断でした。ひどいものでしたが、当時の私にとっては正しい決断でした。後悔はしていませんが、時々、今の自分が持っていたであろう子どもが大人になっているのにと考えることがあります。
長年連れ添ったパートナーと別れてから1週間後に妊...
長年連れ添ったパートナーと別れてから1週間後に妊娠を知りました。私は自分の決断に満足し、自信を持っていますが、だからといって、悲しみを感じないわけではありません。後悔や罪悪感ではなく、騙されたような気分、そして悲しみなのでしょう。
変だったこと、それは。元彼(当時のパートナー)...
大変だったこと、それは。元彼(当時のパートナー)はコンドームを使用していましたが、私は避妊をしていませんでした。妊娠がわかったとき、パートナーに告げたら彼は別れていき、私は友人や大学の同級生にも話したのですが、ただ批判されるだけでした。私は一人で、両親に話すのが怖かったです。薬による中絶をしたのですが、その日に私の夢の大学であるオックスフォードに入学することが決まりました。私は自分の決断を後悔していません。私は学問を追求することを選びましたし、母親になる準備ができていなかったのです。それが私の選択でした。残念だったのは、同級生が私を批判したことです。
私は14年前に中絶をしました。夫と不妊症になって...
私は14年前に中絶をしました。夫と不妊症になって5年目になりますが、後悔はしていません。
私は精神的にも経済的にも良い状態ではなく、パー...
私は精神的にも経済的にも良い状態ではなく、パートナーの両親と同居し、仕事を持ちながらうまくやっていくのに苦労していました。日常生活では、人間関係もうまくいかなくなっていました。私は、自分自身と自分の心の健康を第一に考えるという難しい決断をしなければなりませんでした。私はそれを後悔していませんが、スティグマのために他人に話すことができないと思いました。この経験は非常に困難でした。これは、誰もが話し始めるべき重要な会話です。あなたの体、あなたの選択です。自分自身に愛と思いやりを。
私は14歳で、拒食症で、モーニングアフターピルを...
私は14歳で、拒食症で、モーニングアフターピルを飲みました。生理不順だったので、妊娠する可能性があるとは思ってもみませんでした。もし私の私立学校が知ったら退学になり、両親が知ったら傷つけられるところでした。クリニックとNHSは、私のメンタルヘルスのチーム以外誰にも知られることなく、内密に中絶をさせてくれ、中絶後のストレス療法も提供してくれました。これらの機関から受けた援助がなければ、私は今ここにいないでしょう。
私は2度の予定外の妊娠のうち、1度目は中絶し、2...
私は2度の予定外の妊娠のうち、1度目は中絶し、2度目は妊娠を継続することを選びました。どちらの決断も後悔はしていません。そして、私たちの選択する権利、私たちの身体に対する権利を祝福し、歓迎します。
今1錠目を飲んだところです。明日には残りを飲める...
今1錠目を飲んだところです。明日には残りを飲めるようになるでしょう。私が唯一悲しいのは、私が妊娠6ヶ月の赤ちゃんを中絶するために3日間待機期間があったことです。私が今妊娠しているのは、支配的な男のせいなのです。
妊娠20週のとき、私はパートナーに階段から突き落...
妊娠20週のとき、私はパートナーに階段から突き落とされました。羊膜が破れ、入院することになりました。スキャンでは羊水が大量に失われ、胎児は「真空パック」されているように見えました。私はプロスタグランジンを投与されるのに3日間待たなければなりませんでした。中絶を取り巻く法律のため、私は胎児の心拍が停止するのを待たなければなりませんでした。それは本当にトラウマになるような時間でした。8条を撤廃してください。
私は17歳の時に中絶をしました。今、27歳です。私...
私は17歳の時に中絶をしました。今、27歳です。私にとっては簡単な決断でしたが、難しくなかったというわけではありません。でも、後悔はしていません。
麻酔の後の吐き気が治まる前から、私は中絶するこ...
麻酔の後の吐き気が治まる前から、私は中絶することが今までで一番力を与えてくれることだと実感していました。私にはすでに子どもがいて、その子の兄弟か姉妹がどうしても欲しかったのですが、もうDVを受け続けるわけにはいかず、これがその終わりの始まりとなったのです。
行先でちょっと知り合っただけの人によって妊娠さ...
旅行先でちょっと知り合っただけの人によって妊娠させられてしまいました。もっと気をつけていたはずなのに、必要な予防措置はとれるはずだったのに、バカみたいでした。一人旅だったので、とても孤独を感じていました。妊娠検査薬にショックを受け、恐怖のどん底に落ちたのを今でも覚えています。私は何をしたのでしょう?私が行った国は、宗教上、中絶禁止でした。イギリスに帰国するまで待つしかありませんでした。中絶をした時には12週目近くになっていたので、麻酔をかけて外科的中絶をしなければなりませんでした。その後、目が覚めたとき混乱していて、ベッドにいる他の女性たちの青白い顔が私の前にあったのを覚えています。私がベッドから離れようとしたとき、血が私の脚を伝って床に流れ落ちたのです。それは、今何が起こったかを視覚的に思い出させるものでした。友人が病院まで迎えに来てくれて、家に帰ったのですが、体調が回復するまで1週間ほどかかりました。もし、提供されたカウンセリングを受けることができたなら、もっと早く精神的に回復できたと思います(引っ越しのため、断念せざるをえませんでした)。私は中絶をしたことを後悔していません。中絶をすることは赤ちゃんにとって身勝手なことですが、私は一人で、限られた経済的支援の中で中絶をしたくはなかったです。妊娠した友人たちが12週目のCT検査について話すのを聞くとき、私は自分がその時期にとても悩んでいたことを思いだし、不快に感じます。しかし、私は生まれなかった子どもにとって最善のことをしたのです。これは、プロライフ・キャンペーンを行う人々には理解できないことです。私はイギリスで安全な中絶ができたことに感謝していますし、同じようなアクセスはできない世界中の女性たちに比べれば、自分は幸運だと思います。 女性にとってよりポジティブな未来が来ることを願っています。 もっと他の人とこのことについて話せたらと思います。
私は2回経験しました。その理由を書き連ねないの...
私は2回経験しました。その理由を書き連ねないのは難しい。でもそのような衝動に駆られる代わりに、文明の進歩の中で私たちが行う選択について書きたいと思います。社会は、女性が意識のある知的な存在であると認めるのか、それとも人間の種の運搬者であると認めるのか。前者でありまた女性が本当に人間であるならば、中絶は合法であり、アクセス可能でなければなりません。あ・ら・ゆ・る・場・所・で。
妊娠判定のスティックに「青い線が出てる」。その...
妊娠判定のスティックに「青い線が出てる」。その言葉が耳に残って、口がカラカラに渇き、目の前が真っ暗になった。18歳、大学に入学したばかりの私は、まさにパニック状態だった。養えないことは分かっていた。泣いて、お腹の中身に別れを告げました。
私は2度中絶を経験しました。一つは24歳のとき、...
私は2度中絶を経験しました。一つは24歳のとき、ある男性と出会ってから、もう一つは42歳のとき、2人の子どもを産んだ後です。どちらの場合も罪悪感はなく、難しい決断ではありませんでした。しかし、2回目の中絶のためにスキャン(超音波検査)を受けたときは、非常に感情的になりました。これらの中絶について、私はあまり人に話していません。このようなスティグマを払拭することができればと思います。
私は32歳で、1週間前の今日、妊娠を止めました。...
私は32歳で、1週間前の今日、妊娠を止めました。妊娠9週5日でした。私は自分の決断を決して後悔しないでしょうし、そう確信しています。私は子どもが欲しいとは思っていませんが、絶対とは言いません。しかし、私は望まない子どもをこの世に送り出す義務を負っていません。私は自分自身のために正しい決断をしました。私たち自身、自分の身体と人生にとって何が正しいかを知っているし、社会はその決定を尊重しなければなりません。
それは2004年で、私は発作性夜間呼吸困難で休職...
それは2004年で、私は発作性夜間呼吸困難で休職を余儀なくされていました。次女は1歳半、長女は4歳で学校に行く直前でした。私はほとんど家から出られず、泣きっぱなしでした。でも、妊娠したんです。何カ月も愛し合ったのに、コンドームが壊れたのはその時だけだったはずです。でも、私は文字通り生理が終わったばかりだったので、大丈夫だろうと思っていました。でも、そうじゃなかったんです。私の生理は明らかに不安と鬱で狂っていたし、妊娠してしまいました。 当初、私はこの三女を産むことを実際に考えていたと思います。女の子だと分かったんです。そして、私が対処して、すべてがうまくいくだろうと想像していました。でも、現実はそうではありませんでした。娘たちの髪の毛一本まで傷つけるつもりはないけれど、大切な娘たちと三人だけになるのは怖かったのです。母親として不十分だと感じ、母親業を「正しく」行わないことで娘たちに何らかの害を及ぼすと確信していたからです。詳しいことは覚えていませんが、夫やかかりつけ医師、ごく親しい友人と妊娠について話し合ったことは覚えています。その結果、3人目というのは今すぐできることではないことがわかりました。私は2人の子供の母親としてかろうじて生き延びていたのであって、ましてや3人目を加えるわけにはいかなかったのです。私は分別があり、娘たちのそばにいられるよう、健康を保つことに集中しなければなりませんでした。 私はそれまで、個人的な観点から中絶について考えたことはありませんでした。私はいつも、中絶に直面した女性を応援してきましたし、それが本質的に間違っているとは思っていませんでした。その逆で、多くの女性にとって非常に賢明な行動だと考えていました。当時は、自分もその一人であり、この妊娠を終わらせることが最善だと確信していたのです。しかし、それは簡単なことではありませんでした。かかりつけの医師はすぐに正しい決断だと言ってくれましたが、時期が遅くなっており、手術ではなく薬物療法で行うには、急がなければなりませんでした。結局、2時間近くかけてそのクリニックに行って、その間、つわりを抑えるために無糖のクラッカーを食べ続けました。夫は仕事を休めないので、後で電車でクリニックに来ることになって、帰りは夫が運転してくれることになりました。 すべてはぼんやりしていますが、事前にスキャンされ、錠剤を渡され、冷たいトイレの個室で錠剤を持って立ち、夫が来るまで隅っこで一人で泣いたことは鮮明に覚えています。クリニックの外にある公園で、子供たちが遊んでいたことも覚えています。家に帰ると、私はとても痛くて、血のついた赤い袋がトイレに落ちていたのを覚えています。私たちはお互いに抱き合って座って泣きました。私は起きることに何も知識がなく、何週間も出血し、カウンセリングも受けず、その後誰も私のことをチェックしてくれませんでした。その体験は誰にも話しませんでした。14年前のことですが、これを書きながらまだ泣いています。私の中には、決して止まらないものがあるのだと思います。 先日、ベビーロスの啓発日でした。赤ちゃんを流産した友人たちはFacebookのプロフィール写真を変え、ソーシャルメディアは追悼の投稿で溢れかえっていました。でも、私は自分の赤ちゃんを殺してしまった。公の場で追悼することはできなかった。自分のせいで赤ちゃんを失った女性たちにとって、それはどんなに恥ずべきことでしょう?だからといって、失った彼女のことを思わないわけではありません。ほぼ毎日です。 あの子はどんな子だったのだろうとか、今頃は高校に入学しているのだろうかとか、姉が大学に行くのを見ていただろうとか、私は彼女をこの腕で抱くことができただろうとか、想像してしまいます。 妊娠検査をした日の朝のことは、決して忘れないでしょう。子供たちがお茶の後に食べるプディングのために、チョコレートケーキをオーブンで焼いていたんです。私は、「ちゃんとした」母親らしく、建設的で有意義なことをすることができたと、自分に満足していました。しかし、ショックでケーキを長くオーブンに入れすぎてしまい、あの日のあの焦げたチョコレートの匂いを忘れることができません。そして今日も、焦げたチョコレートの匂いを嗅ぐたびに、生まれなかった赤ちゃんのことを思い出すのです。
娠の相手と別れた数時間後に妊娠がわかり、私の...
妊娠の相手と別れた数時間後に妊娠がわかり、私の精神状態と自尊心は急降下しました。日中は、誰にもバレないようにつわりを隠し、普通に仕事をしようとしました。仕事では、不安なモヤモヤのために簡単な言葉も忘れてしまうほどでした。不安、罪悪感、羞恥心、悲しみ、恐怖を麻痺させるために、何週間もお酒を飲んで過ごしました。酔っていても仕事も運転も続けていて、なぜ疑われないのか、さっぱりわかりませんでした。普段から飲酒運転には強く反対していて、滅多に飲みませんが、妊娠という現実に対応できませんでした。友人とも会わなくなり、恥ずかしさとスティグマで趣味もすべてやめました。 被害妄想が激しくなり、ビクビクするようになりました。夜は薬なしでは眠れなかった。自分はひどい人間だと思い込んで、ベッドの上で寝たり、毛布を使うことも許しませんでした。小さな音でも、私が中絶しようとしていることを知った誰かが家に押し入ろうとしているのだと思ったりしました。 私はほとんど何も食べませんでした。自分の体を支えなければ、他の生命を支えることはできないし、誰にも知られずに問題から逃れられると思ったからです。 羞恥心から助けを求めるのが遅れ、そのためより複雑な処置をしなければなりませんでした。中絶に対するスティグマのために、私はこのような状態になってしまったのです。見ての通り、私は母親になるのに適した状態ではなかったのです。しかし、社会的な意見によって、私は助けを求めることを恐れていました。そして、このスティグマは私の頭の中にあるものではありません。私の決断のために16年来の友人を失い、にやにや笑っているかかりつけ医から「お前がそんな治療を受けるとは思わなかったよ」と言われました。私には判断ではなく、助けが必要でした。孤立するのではなく、サポートが必要だったのです。中絶のスティグマは、私たちが最も必要としているときに、女性の声を奪ってしまうのです。 ありがたいことに、私は妊娠中絶をすることができました。もし中絶をしなければ、私の精神状態はさらに悪化していたと確信しています。精神的な回復はこれまでで最も困難なものでしたが、今では自己認識、思いやり、そして受容という、他の方法では夢にも思わなかったレベルにまで到達しています。
私は19歳で、大学1年でした。私は12週目に局所...
私は19歳で、大学1年でした。私は12週目に局所麻酔で外科的中絶をしました。妊娠したと思った瞬間から、中絶をするのだとわかっていました。今までで一番賢明な決断だったと思います。でも、ほとんど毎日そのことを考えています。 私はその直前に妊娠した相手と別れて、かなり飲んでいました(他の学生と同じように、そして別れた後の多くの人と同じように!)。親になる精神的な準備はできていなかったし、自分の親は絶対に賛成しなかっただろうから、住むところもなかっただろうし、自分の人生を元恋人に縛られたくなかったし、経済的な収入もなかったし、学歴もキャリアも築かなければならなかったし、妊娠に気づくまでに飲んでいた量から、赤ちゃんもたぶん大丈夫じゃなかっただろうと思います。今までで最高の決断でした。 しかし、妊娠し、中絶することを決めたことで、いつか子どもが欲しいと思う日が来ることを悟りました。しかし、その時には、小さな陽性の十字架(妊娠検査薬の陽性反応)を見るのが楽しみになっていることでしょう。
これらの話を読んで、女性や一般の人々に、中絶は...
これらの話を読んで、女性や一般の人々に、中絶はとても一般的で、最も安全で規制されている手続きのひとつであるという事実を知ってもらうことがとても重要だと思いました。中絶は、恥ずかしく恐ろしい道徳的ジレンマである必要はありません。誰もが自分の体をどうするか選択する権利を持っており、私たちはそれを支持すべきなのです。
1976年、私は24歳だった。16歳で結婚して19歳には...
1976年、私は24歳だった。16歳で結婚して19歳にはもう二人の子供がいた。24歳の時社会人入学した大学の一年目で一夜限りの関係を持った。BPAS(中絶専門医療機関)のカウンセラーに相談して、ベルファストからの最終便飛行機に乗ってロンドンに向かった。その当時、とても高価なことだった。資金繰りのため人に借りたり恵んでもらったり、盗みさえした。夫にも話さなければならなかった。飛行機がとても遅い時間だったのでロンドンで見知らぬ人のもとに泊めてもらうようことになった。まずBAPSの中絶専門診療所に行き、そこから私立の病院にまわされた。実はBPASには中絶費用を半額借りたままでいる。BPASは以来、取り立てたりはしてこない。中絶は痛みのないものだったしそこで働く人たちはとても親切だった。後悔はない。わたしとその胎児にとって正しい決断だった。
中絶医療を提供する者として、女性が自分の生殖の...
中絶医療を提供する者として、女性が自分の生殖の健康を自分で決める権利を持ちそれを行使できる国に生きて働いていることを幸運に思う。私たちは恥を感じさせられるべきではない。
中絶経験はないが、中絶について話すこと、特に家...
中絶経験はないが、中絶について話すこと、特に家族に対しては気おくれがある。もし中絶することがあったら親友にだけしか話さないと思う。中絶について話すことがタブーでない世の中に行きたいと思う。中絶をすることはないような気がすると同時にいつかはするのかも、とも感じている。
教義で中絶を禁止しているため、カトリックの信仰...
教義で中絶を禁止しているため、カトリックの信仰をやめた。
私は12年前の今日、中絶をしました。そのことに罪...
私は12年前の今日、中絶をしました。そのことに罪悪感はありませんが、何年もの間、後悔の念に駆られ、「もしも」と考えてきました。もし違う決断をしていたら、私の人生はどれだけ違っていただろう。私は恋愛のスタート地点にいましたが(現在も続いています)、お互いにとって正しいタイミングではありませんでした。最もトラウマになったのは、それを知ったときに、私と母の間に溝ができたことです。母は、私にこのまま妊娠を続けてほしいと強く願っていたので、ショックで傷つきました。選択する権利はとても重要であり、今日このような話をたくさん読んで、私は元気をもらっています。私はこれまで、友人と親しい家族以外には、自分の人生のこの部分をずっと隠してきました。これからは恥ずかしいと思わないように、そして声を上げることで中絶にまつわるスティグマを払拭したいと思います。
この展示は、中絶を経験した女性の多様性、そして...
この展示は、中絶を経験した女性の多様性、そして彼女たちのストーリーの豊かさと美しさに、私の目を大きく開かせてくれました。このような活動はとても重要です。男性として、女性の選択権のために立ち上がる男性がもっと増えてほしいです。
私は中絶をしたことがなく、博士号取得のために母...
私は中絶をしたことがなく、博士号取得のために母性の研究をしています。一日中、母性、妊娠、出産に関する物語や医学研究論文を読んでいますが、アクセス可能で、無料で、安全な中絶の倫理的必要性ほど確かなものはありません。
私は現在もこれまでも英国の納税者でした。なぜ私...
私は現在もこれまでも英国の納税者でした。なぜ私のお金がアイルランドの女性たちの権利を否定するために使われたのでしょうか?
私は妊娠したことはありませんが、母(南米出身)...
私は妊娠したことはありませんが、母(南米出身)は私を妊娠していると気づいた時にカリフォルニアにいたからこそ、私を中絶する選択もできたと言っています。母はこのことを公言しており、もっと長く考えるべきだったと言うこともあります。母は若く未婚であったため、祖父も私を中絶するように勧めました。私は愛情深いけれども、崩壊した家庭で育ちました。生きていてよかったと思いますが、この選択はすべての女性に可能でなければならないと固く信じています。母親は、私を産んだことを今は喜んでいると思います。でも、すべての人がそうだとは限りません。今、大人の女性としてこのことを考えてみると、もし彼女がペルーやベネズエラ、エルサルバドル、あるいはラテンアメリカの他の国で私を妊娠していることに気づいていたら、選ぶチャンスはなかったでしょう。これは重要なことです。母が私を産むことを決めたかどうかにかかわらず、これはすべての女性にとって「決断」できることにすべきです。もし今妊娠したら、私は中絶すると思います。私はまだ母親になる準備ができていませんし、いずれは子供が欲しいと思っていますが、自分のキャリアを優先しているので、それでいいんです。このことで罪悪感を抱いたりわがままだと感じたりする人はいないはずです。でも、私に染み付いたラテンアメリカの伝統のために、私はフェミニストだし、中絶を支持していながらも、罪悪感を覚えるのかもしれません。だから、スティグマをなくしましょう。女性たちよ、誰かを愛する前に、まず自分自身を愛してください。
私は中絶をしたことがないのですが、数ヶ月前に母...
私は中絶をしたことがないのですが、数ヶ月前に母親から、私が生まれる前に中絶をしたこと、そのことを他に知っているのは父親だけであることを聞かされました。母は祖母と仲が良かったのに、祖母には頼れないと思っていたようです。私は幸運にも、モーニングアフターピルが必要になったり、コイル(子宮内避妊具)を装着したいと思ったときに母に相談できると感じていますが、母にも同じように支えがあったらよかったのにと思います。
私は中絶をしたことはありませんが、アイルランド...
私は中絶をしたことはありませんが、アイルランドの友人が中絶が違法な場所で暮らしているために苦労しているのを見てきました。中絶をするためにイギリスへ行く余裕がないのに、子どもは育てていけるはずだと期待されるだなんて--馬鹿げています。
私は中絶したことはありませんが、今の彼氏と付き...
私は中絶したことはありませんが、今の彼氏と付き合った当初は3晩避妊せずにセックスをし、モーニングアフターピルを3回服用しました。私は鬱病を患っていたので、二人とも不注意だったのです。幸いにも私は妊娠しませんでしたが、もし妊娠していたら中絶していたでしょう。今はコイル(子宮内避妊具)をつけています――やれやれ!
私はリプロダクティブ・セクシュアル・ヘルス(性...
私はリプロダクティブ・セクシュアル・ヘルス(性と生殖に関する健康)の修士課程を始めたばかりで、主に開発途上国について研究しています。その中で特に印象に残っていることが2つあります。1) アメリカの共和党がGlobal Gag Ruleを復活させると、妊産婦死亡率は急上昇する。2) 中絶を自由化し、より利用しやすくすると、実際に中絶を必要とする人は少なくなる。人々が科学的な証拠を無視することに、私は心を痛めています。
私の娘は2度も中絶するよう「指示された」ことが...
私の娘は2度も中絶するよう「指示された」ことがあります。てんかん持ちなのと薬のためでした。特に相談も話し合いもありませんでした。
私の中絶の話は、母国では犯罪者になってしまいま...
私の中絶の話は、母国では犯罪者になってしまいます。(アイルランド)
私は体外受精を6回行い、4回流産しましたが、1度だ...
私は体外受精を6回行い、4回流産しましたが、1度だけ素晴らしい成功を収めて、すばらしい男の子を授かりました。個人的な葛藤はありましたが、私は今でも選択権を支持しています。誰もが違う状況を生きていますが、相手の立場に立ってみれば感じ方も違ってくるのではないでしょうか。
人を喜ばせることが大好きな仕事だからです。私は...
人を喜ばせることが大好きな仕事だからです。私は薬による中絶の処方箋と手術による中絶の処置を行っている医師です。天気の良い日には、不安や緊張で一日を始めたお客様が、幸せそうに、そして自信を持って自分の夢を叶えることを楽しみに帰っていく姿をたくさん見ています。
私は2003年に中絶をしました。38歳のときでした。...
私は2003年に中絶をしました。38歳のときでした。クリニックで看護婦が私を部屋に連れて行き、「中絶とは思わないでください。初期の流産だと思いなさい」と言われました。私はそれが好きではありませんでした。彼女は自分自身に嘘をつきたかったのです。クリニックは中絶工場のようでした。私たちの長い列は、白いガウンを着て順番を待っていました。誰もお互いに話しかけませんでした。その静けさが心にしみました。手術が行われる部屋は、壁から天井まで銀色のクロムメッキで覆われていました。私はぼんやりとした自分の姿が映っているのを見上げてました。いたるところに器具がありました。歯医者で処置を受けるときのようにバックにラジオが流れていました。私が目覚めるとチキンサンドイッチをくれました。駅に向かうタクシーの中で、運転手が「このクリニックは何をするところなのか」と聞いてきました。知っていたのに違いありませんが、私が今経験してきたことを話させたかったのでしょう。
私は20歳の時に誤って妊娠してしまいました。子ど...
私は20歳の時に誤って妊娠してしまいました。子どもを育てる余裕はなかったし、家族になりたい相手もいませんでした。中絶はタブーなので、誰にも言えず、結局一人で経験することになりました。でも、私は今は自分の選択を恥じてはいません。あれは私の選択であって、私は今、家族を作る準備ができてわくわくしています。
BPASに電話してから2週間後に予約を取りました。...
BPASに電話してから2週間後に予約を取りました。カウンセリングと中絶は同日にお願いしました。私は折り返し電話をする必要があったので、電話でいろいろな人と話をしましたが、彼らはフレンドリーで理解力があり、私が必要とするすべての情報を与えてくれたので安心しました。/水曜日が来て、万が一家に帰る時に気分が悪くならないように、友人を連れて行きました。受付は親切で、とても静かで、小さなクリニックでした。私は、自分が思っていたような居心地の悪さや気まずさは全く感じませんでした。受付で記入用紙を渡され、待合室で記入して戻しました。待ち時間に読むことができる小冊子ももらったので、提供される治療についてより詳しい情報を得ることができました。/それから間もなく、15~20分ほど経った頃でしょうか。私は部屋に呼ばれました。そこで細かいことを再確認され、自分の決断を確信しているかどうか、それが私にとって間違いなく正しいものかどうかと尋ねられました。私はそれが正しい決断であることに同意し、完全に控えめな表現で私たちは続けました。私はHIVチェックと鉄分チェックを受けました。これは指を少し刺して行われましたが、血液で他の検査もされたと思いますが、よく覚えていません。それから、基本的にとても長い綿棒のようなパックを渡されました。これは性病をチェックするためのものです。私は何をすべきか説明され、トイレに行き、終わらせて、受付に渡しました。その後、腰かけてエコーのために看護師に呼ばれるのを待ちました。/約15~20分後、看護師に呼ばれました。彼女は座って私に話しかけ、両方の錠剤とその作用について説明し、エコーでどんなことをするのかを説明し、私のカルテをチェックし、家がどれくらいは慣れているのか、どのような治療が最適なのかを教えてくれました。その後、看護師が薬の準備などをするので30分ほど待つように言われて待合室に戻されました。/もう一度呼ばれました。最初の錠剤と吐き気止め、そして4種類の抗生物質を渡されました。それから、別の錠剤を4錠、次の日に家で飲むようにと渡されました。/帰宅していいと言われました。24時間のうちにわずかなひきつりは感じました。わずかなというのは、ほとんどないという意味です。(最初の錠剤を飲んでから24時間後の)4時半に仕事を終えて、私は4錠の錠剤を1つずつ膣のできるだけ奥の方に入れました。やり方は説明されました(渡された冊子にも書いてありました)。30分後くらいに痛みが始まって、私は湯たんぽをお腹にあてて四つん這いでゆらゆらするのが一番楽だと気づきました。正直、どんな体勢でもいいので、楽な姿勢でいると、いつの間にか最悪の状態が終わっています。また、看護師から渡されたコデインを服用し、イブプロフェンも追加しました。30分から1時間くらいは痙攣がひどく痛むと思いますが、それが最悪の状態です。その後は、錠剤が効いているのか、不快感だけですみました。/8時頃にトイレに行くと、出血が始まっていました。次にトイレに行ったのは10時頃で、このときに血の塊と圧迫感がありました。この時に出たのは間違いないと思いますが、定かではありません。次のトイレは12時半頃で、また血の塊が出ましたが、前のほど大きくはなかったです。/今、1週間経ちますが、痛みはすっかり消えています。まだ出血があったりなかったりしますが、それは普通のことです! 痛みは全くありません。昨日まで大量に出血していたので、心配になってアフターケア・チームに電話したところ、素晴らしい対応で、それが正常であること、心配することはないと安心させてくれました。BPASのスタッフにはいくら感謝してもしきれません。楽しい経験だったとは言えませんが、私が話したり会ったりしたどのスタッフの方も、フレンドリーでプロフェッショナルでした。
これを読んでいる女性の皆さん、この物語が希望と...
これを読んでいる女性の皆さん、この物語が希望と力を与えてくれることを願っています。なぜなら、このプロセスは予想よりもずっと簡単なものかもしれないからです。以下は、私のとても前向きな体験談ですのでぜひ読んでください。/それを知ったとき、とても怖かった。薬を飲んだり、手術をしたりしたことがなかった私にとって、その経験自体がすごく怖かったのです。不安やパニックの発作に襲われるかもと……。でも、この決断は自分にとってベストな選択だと思ったし、この方法があってよかったと思ったけど、果たして自分は乗り越えられるのかと?/当初は吸引法を選択しようとしたのだけど、いろいろ調べ、眠くなる薬や手術もいらなくて、自宅でプライバシーが守られて、自然にできる方法が良いと思って、最終的には薬物療法がベストだと判断し、予約を変更しました。クリニックに着くと、当然ながら副作用のことが書かれていて、ああ、どうしよう……今までずっと育てられてきた私の体は、これに耐えられるだろうか……すごく恐ろしいイメージが頭の中を駆け巡りました……痛みはどうなんだろう? 用心のためにオキシコドンとタイレノールを処方されたけど、心臓がバクバクして、これは大変なことになりそうだ、特に私が読んだいくつかの話はひどかったと思ったけど、でも読み進めてください、私の経験は、これを読んでいるすべての女性にとって希望になるからです。私の経験がうまくいあったらきっとここに書こうと心に決めました。他の人の体験談が、私に希望を与えてくれたからです!/私はクリニックに迎え入れられ、血液検査と経腟の超音波検査を受け、妊娠7週目だと言われました。薬の飲み方と受け取り場所を教えてくれ、カウンセラーも私に話しかけてくれ、これが100%私の決断であることを確認しました。/家に帰り、すぐに最初の錠剤(ミフェプリストン)――プロゲステロンを遮断する薬――を飲んで、この薬を飲むことでさえ、何か感じるのかと思ってとても怖かった。でも、正直なところ、何も感じなかったのです……ほんの少し吐き気がしただけで、ここ2、3日そうだったので、妊娠のせいだったと確信しています。/26時間後、眠れなくなり、終わりのない準備、ろうそく、痛み止めの薬などなど……今振り返ると、感謝と畏敬の念で微笑まずにいられません。なぜなら、準備したものの半分も全く必要なかったからです。30分前に吐き気止めと強力な痛み止めのアドビルを2錠飲みました。そして、ミソプロストールと呼ばれる4錠の錠剤をのんで(両側の頬の内側に貼って)待ちました……ほとんど祈るような気持ちで、この日までずっと繰り返してきたようにポジティブなことをずっとつぶやきながら……心臓がどきどきして……。/おかしな話だとは思いますが、最悪だったのは薬のせいで数時間喉が痛かったことで、30分後にとても軽いけいれんが始まったのだけど、それだけで、他に副作用は何もなかったんです! トイレに行くと、出血が始まっていました……こんなはずはないと思い続けました。お腹に置いた湯たんぽが一番の味方で、お腹の痙攣は10点満点で3くらいの程度で、必要な時に痛み止めのアドビルを2錠使っただけでした! 私は無駄にストレスを感じていたのです! 10時間ほど大量の出血があって、大きな塊が出てきたり、一時は袋(灰色や黄色の組織)を感じることもありました。出血は1日目はとても多くて、次の日は普通で、お腹のひきつりはたぶん10点満点で1か0になっていったと思います……そう! ぽつぽつとした出血は2週間ほど続きました。/1週間後に検査に行ったところ、成功したことが確認されました。/女性のみなさん、これがあなたにとって正しいことだと思うなら、この物語は希望であり、このプロセスが想像するより半分もひどいものではないことを示す一例です。この物語を読んだ人に愛と幸福を送ります。これがあなたに力を与えることを願っています……あなたは勇気ある戦士であって、何もかもがうまくいきますよ!
私は30歳の時に初めて妊娠しました。当時、私は失...
私は30歳の時に初めて妊娠しました。当時、私は失業中で、健康保険もなく、赤ちゃんを育てられる状況ではありませんでした。この時、私は薬による中絶をするという難しい決断をしなければなりませんでした。家族計画連盟での経過観察を含め、合計650ドルかかりました。薬による中絶は、2種類の錠剤を服用することから成っていました。最初の錠剤は、初診時にクリニックで処方されました。最初の錠剤の後、副作用や症状は何も起こりませんでした。2つ目の4錠のセットは、1つ目の錠剤の24〜48時間後に自宅で服用するよう指示されました。36時間後にイブプロフェンと吐き気止めを服用し、その1時間後に2回目の4錠セットを服用しました。4錠は頬の間で溶かすことになっていましたが、結局30分待っても少ししか溶けず...結局クリニックの指示通り30分の時点でまだ溶けていないかなりの量を飲み込みました。飲み込んだ直後は少し震えました。4錠飲んで1時間後に下腹部・骨盤が痛くなり、4時間後には血まみれになりました。妊娠4週目の薬による中絶は、出血量が多く長い日数であることと、最初の痛みを伴うけいれんを除けば、ほとんど通常の月経と同じような感覚でした。私は7日間出血し、さらに3日間ごく少量の出血がありました。妊娠4週目の中絶の間、妊娠組織が出てくるのを見ることはありませんでした。クリニックの指示に従い、中絶から4週間後に妊娠検査薬を服用しましたが、陰性でした。しかし、下腹部や骨盤の不快感、乳房の圧痛などの妊娠の症状が続いたので、再びクリニックに行きました。クリニックでの妊娠の尿検査は陰性で、感染の徴候もなく、骨盤内の検査もすべて正常でした。中絶後5週間、軽い生理痛のような下腹部や骨盤周辺のけいれんが続いたり、止まったりしました。また、中絶後5週間は、乳房の圧痛がありました。中絶から5週間後、私の生理が再開しました。生理の後、私の妊娠の症状はすべてなくなりました。私の経験から、中絶をしなければならない状況に自分を追い込んだことは本当に最悪で、その選択をしなければならないことを恐ろしく感じましたが・・・その時、それは私にとって必要な選択であり、家族計画連盟での薬による中絶がそれを可能にしたのです。他の人々の経験を読むことが私の助けになったので、誰かの助けになればと思い、私の経験を分かち合いました。
知っておいてください。大丈夫です。 中絶は合理的...
知っておいてください。大丈夫です。 中絶は合理的な選択であるべきで、もしあなたが罪悪感にさいなまれていないなら、それはあなたが正しいことをしていることの証明になります。新型コロナのためにロックダウンと経済の大混乱があって、私の選択はより強固なものになりました。 それでも、かかりつけ医と保健省を通じた手続きは、ひどく遅れてしまいました。私が唯一後悔しているのは、直接BPASやマリー・ストープスに頼まなかったことです。私のかかりつけ医は、中絶薬を郵送してもらえる新しいサービスのことを教えてもくれなかった。代わりに、私は(不必要にも)エコー検査を受けるために病院へ送られました。 2020年6月のことで、まだ、どの通知もロックダウン用に更新されていなかったのです。私の予約通知には、公共交通機関を利用することが推奨されていたのです。実際、それは別の意味で間違っていたのです。 パンデミックのため、その病院では二種類の薬を一気に服用する中絶方法を提供していて、私は同じ日のうちに(2日間にまたがって錠剤を飲むのではなく、エコー検査に行った日に)すべての薬を服用することもできました。 ただし、私を家まで送ってくれる誰か別の大人がいる場合に限られていましたが。 そうすれば、私は自宅で妊娠を「流せる」のです。この方法を私は選んで、ひどいことになるけど、さっさと終わるはずだと心構えをしました(もちろん人によって違いますから、私の場合は運河悪かっただけです)。同意書には、出血は4-6時間以内に始まり、ひどい生理痛のような痛みがあるかもしれないと書かれていました。 私の場合は1時間以内に始まり、最悪の時は驚異的な痛みがして、大便と嘔吐を伴い、ぶるぶると震えました。 恐ろしかったけど、せいぜい1時間くらいでした。 もしあなたも同様だったら、「これは過ぎ去る」ことを忘れないでいてください。英国の女性の3分の1が中絶を経験している、あるいはこれから経験するということを、より多くの人に知ってもらいたいです。 自分もしたということを人に言う義務はありませんが、女性のことを考える時には、この数値を心に留めておきましょう。
昨日は私にとって2度目の中絶でした。最初の中絶は...
昨日は私にとって2度目の中絶でした。最初の中絶は、私がまだ10代でつきあっていて、何も知らなかった頃だったので、簡単な選択でした。精神的な痛みはありましたが、それでも簡単な選択でした。 今回はもっと難しい選択でした。最初の中絶から7年が経ちました。今、私は結婚し、新しいキャリアを始めたばかりで、子供の負担なしに私がやりたかったこと(旅行、パーティー、恋愛と仕事に打ち込むこと)をすべてやっています。私は今の生活をとても気に入っています。 私は24歳になったばかりで、夫は32歳です。私たちは知り合って5年、結婚して2年になります。今回の出産は、もちろん全く予定外のことでした。私たちは快適に家庭を築くために必要なものはすべて持っています。ただ一つ足りないのは、利便性です。 パンデミックというタイミングは、私たちにとって本当に衝撃的でした。新しい街に来たばかりで社交生活を諦めることはできない。旅をやめる覚悟もない。個人的には、スタートしたばかりのキャリアを一時休止する準備ができていない。2020年は、落ち着いて子供を産む前に、最後にやりたいことを全部やる年だったはずなのに、何もできていない。私たちの生活は、旅行、コンサート、居心地の良いバーで占められていたはずなのに、パンデミックのせいでそのような選択肢はなくなったし、町中のバスケのわが取り払われてしまって、夫はバスケットボールをすることすらできなかったんです。パンデミック前の生活を完全に奪われた気分です。このような思いをしているのは私たちだけではないでしょう。 私は夫をとても愛しているし、彼は家族を持つ準備ができていますが、私は子供のために自分のアイデンティティを捨てる準備ができていないだけなのです。中絶のために2週間待たなければなりませんでしたが、事前に計画していた旅行があり、妊娠していることを知りながら過ごさなければならなかったので大変でした(旅行には夫の幼なじみも同行していました)。お酒を飲まなかったり、食べ物に気を付けたりすることもできたでしょうけど、中絶するという決意を貫き通すためにも、妊婦がしてはいけないとされていることをすべてやろうと思っていたのです。私たちの最初の子どもを産むかどうかを考える4週間は、感情的に押したり引いたりするような状態でした。最終的には、もう少しだけ気ままな生活を続けたいという自分たちのわがままが、飼わないという決断につながりました。でも、自分の体なのだから、最終的に選択するのは私自身であり、私はまだ準備ができていないのだ、と認めています。 今は中絶手術の翌日です。2日前のカウンセリングの後、昨日は麻酔をかけるまでずっと泣いていました。スタッフはとても親切で、思いやりがあり、忍耐強く、私が自分の決断に確信を持っているかどうか何度も確認してくれました。私は本当にそう思っていたのですが、それでも感情的になり、悲しくなりました。手術は痛みもなく、今日、身体はとても快調です。痙攣もなく、出血もごくわずかです。私の中で癒しが必要なのは感情だけですが、きっと大丈夫だと思います。愛情に満ちた幸せな結婚生活を送っていると、皮肉なことに、中絶の選択は一人で決断することよりも難しくなっています。 とにかく、私にできることは、2021年が私たち全員にとってより良い年になるように希望を持ち続けることです。私たちの計画妊娠はずっと2021年7月20日が3年目の記念日ですが、この世界が私たちにそのマイルストーンを達成させてくれることを望んでいます。 2度目の中絶を助けてくれたサウスカロライナ州のGreenville Women's Clinicと、1度目の中絶を助けてくれたアトランタ州のFeminist Women's Health Centerには感謝します。
生理不順が続いており、ようやく調べ始めたところ...
生理不順が続いており、ようやく調べ始めたところでした。出血が続くのは目新しいことではありませんが、妊娠を除外するための検査が陽性でした。今ならNIで受けられるので、パンデミック時の渡航方法を考える必要がなく、安心しました。中央アクセス回線に電話し、2日以内に診察を受けることができました。すぐに医師から連絡が来るので安心した。この間、ノーザン・トラストはEMAにアクセスできなくなった。自分のトラストもそうなるのではとパニックになりました。突然、支払いと薬の注文をオンラインでどうするか、出張があるときはどう嘘をつこうか、育児はどうしようかと考えていました。その時、このサービスを提供している医師がトラスト全体で一人しかいないことを知りました。そのため、医師と相談するまでに1週間以上かかりました。その後、クローズコンタクトとして14日間隔離されることになりました。結局、妊娠がわかってから中絶するまでほぼ4週間かかりました。妊娠がわかってから中絶するまでには4週間近くかかり、ストレスがたまりましたし、遅れると手詰まりになるような気がしました。しかし、当日は、無料で安全な地元の医療にアクセスできたことにとても感謝しています。電話一本、訪問一本でサポートが受けられると思うと、家でゆっくり休むことができました。私はNIがすでに適切な完全なスタッフの中絶サービスを持っていることを望みます。それは場所や喜んでプロチョイス医療スタッフによって抽選であってはなりません。
OVID-19のロックダウンの最初の頃に中絶しました...
COVID-19のロックダウンの最初の頃に中絶しました。私は22歳でした。3月27日に妊娠がわかり、4月6日までにBPASの素晴らしい人たちから折り返し電話(翌日)、電話相談(4月1日)、そして6日に看護師さんと一緒に直接、最初の中絶薬を服用しました。その直後に法律ができ、中絶薬も自宅で服用できるようになったと思います。これは、他の女の子たちのためになることだと思いました。彼は私をサポートするために車で来てくれましたが、私は彼が警察に止められ、尋問されるのではないかとずっと心配していました。約束の場所に行ったときも、同じように止められる心配をしました。家族が「どこに行くの?と聞かれ、車で25分のクリニックに行き、予約を取り、25分かけて帰宅しなければなりませんでした。私たちは嘘をつき、「スーパーに何軒か行った」と言いました。最初の電話相談にも影響がありました。私の母親は今、自宅で仕事をしているので、プライバシーを確保する方法を見つけなければなりませんでした。結局、家の前の車の中で、掃除をしているふりをして電話を受けました。言い訳ばかりで、「普通」の世界なら「買い物」「映画館」「友達に会う」などを使えたのですが、すべてが閉まってしまったので、言い訳が限られてしまいました。また、仕事がストップしていたため、仕事を休む必要がなく、最終的に一時帰国することができたのも大きな収穫でした。正直、内緒にしておくストレスはありましたが。これが無料だなんて信じられない!」としか思えませんでした。BPASは素晴らしい組織で、彼らなしでは、私は対処できなかったでしょう。今、10ヶ月近く経ちますが、自分の決断がいかに正しかったか、たびたび思い知らされます。
一夜の関係で妊娠。私は進歩的な考えの持ち主で信...
一夜の関係で妊娠。私は進歩的な考えの持ち主で信心深くもないので、もしこんなことになったら、すぐに中絶すればいい、それでいい……と思っていました。でも実際は、正しいことだとわかっていても、意外に難しい決断でした。私の場合、予約をして薬が手に入るまで2週間もかかりました。それはあまりうれしくなかったけど、自分の決断が正しいことを確信するための時間を与えられました。 私は中絶についてちゃんと知識をもっていなかったことに気づかされました。薬を飲んでも全然痛みはなく、ただ、たくさん出血して、3日後に流れました。それでもたいして痛くはなかったです
信じられませんでした。私にはすでに2人の子供が...
信じられませんでした。私にはすでに2人の子供がいて、私は今仕事をしていますが、Covidの間はなんとかやっていける状態でした。悪夢のようで、本当は中絶したくなかったのですが、私はもう子供を欲しくなかったし、パートナーもそうでした。そして、私の娘たちもそうするとは思っていませんでした。それはただ正しいことだったのです。コロナウイルスが発生したとき、私はもう子供をこの世に送りたくなかったし、すべてがちょっと悲観的でした。でも、考えずにはいられないんです。今までで一番良かったかもしれない。だから、私はただ、よく考えて決断したし、早く決断しなければならなかったし、今でも正しい決断をしたと思っています。でも、いつもちょっとした罪悪感を抱えているんです。それを軽々しく口にするのは、人間としてどうかと思う。難しいですね。
妊娠がわかったとき、私とボーイフレンドは6ヶ月...
妊娠がわかったとき、私とボーイフレンドは6ヶ月間隔離されていました。直感的に、私はまだ準備ができていないし、パートナーも私もそのための場所ではないと思いましたが、私たちは少し年を取り、ある意味30代なので、とにかくやってみようという気持ちになったのです。二人とも仕事も収入も順調で、安定した愛情関係です。私たちはとても長い間話し合い、それが適切なタイミングではないとわかっていても、考えることや話すことが信じられないほど苦痛であることに変わりはありませんでした。でも、結局のところ、親になるタイミングは自分で選ぶ必要があると思うんです。北アイルランドで中絶をするのは簡単なことではありません。 私はAlliance for Choiceに助けられ、その後プロバイダーに電話で相談しました。私が話した人は皆、とても親切で、共感してくれ、とても大切にされていると感じました。出張の必要がないことがわかったときは、二人とも本当にほっとしましたし、最初のピルを飲むためにクリニックに行かなければならない日もわかっていました。最初のピルを服用した後、コビッドのために家まで歩かなければならず、私はずっと泣いていました。 パートナーは私の世話をしてくれ、食事を与えてくれ、お茶を持ってきてくれましたが、私が知っていることをそのまま言い続け、恥じる必要はない、自分の体であることは絶対に私の権利であり、自分の体に対して何を望むかを選択するのは私自身なのだから、と言いました。翌日、残りの錠剤を飲みました。鎮痛剤も飲みましたが、肉体的な痛みに耐えられるようなものはありませんでした。今振り返ってみると、私が最も怒りを覚えることのひとつは、実際にどのように、どのようなことが起こりうるのか、あまり知らされていないことです。他の女性の体験がどのようなものなのか、私にはわからないのです。私が違うだけかもしれませんが。 あれから毎日、より快適に、より確実に感じることができるようになり、恥ずかしさについて考えることも日に日に減っていったと思うんです。そして、それがどれだけ自分の体のことなのか、自分の体に関する決断は他の誰でもない自分がすることなのだと、よりはっきりと理解できるようになり、それを実行できたことが本当に嬉しかったのです。それはちょうど正しい決断でした。
私は33歳、幸せな結婚生活を送っていますが、子供...
私は33歳、幸せな結婚生活を送っていますが、子供が欲しいか欲しくないか、長い時間をかけて話し合い、ただ本当に「欲しくない」という結論に達しました。偶然にも妊娠したときが、私たちの気持ちが変わる瞬間だったのでしょうが、そうはなりませんでした。30代前半でこんなことになるなんて......と、失敗したような気持ちになりましたし、望んでいないことを恥じる気持ちもあり、そのことが自分を悪い人間、女性として劣っていると感じていました。私は既婚者なので、電話をかけるのが恥ずかしかったです。中絶の理由を、お金がないとか、人間関係がうまくいっていないとか、正当化しているように感じることが多いようです。私たちの場合は、予定外のことであり、間違いだったという自由な選択でした。遠隔治療と郵送でのピル受け取りで、私の気持ちはかなり楽になりました。ケアは素晴らしく、思いやりがあり、批判的でないものでした。手術までの間、何が起こるかわからないというのは大変なことでした。だって、人によって違うって言うじゃないですか。だから、どのくらい痛いのか、どのくらい出血するのか、どのくらい痙攣するのか、そういうことがよくわからなくて、情報を探すのが大変でした。結局は大丈夫でした。 中絶して友人に話したところ、ほとんどの人が中絶した人を知っていることがわかりました。数ヶ月前の私なら、このことにとてもショックを受けていたでしょうし、実際にこんなに一般的なことだとは信じられないと思います。もし中絶が汚名でなければ、人々はこのことについてもう少しオープンになることができ、恐らくこれほどまでに恐怖や不安を抱くことはないでしょう。 私が自分の話をしようと思ったのは、他の生殖医療にアクセスするのと同じようなことなのに、まだ多くのスティグマと秘密主義があることに気づいたからです。しかし、私が困難だと感じたことのひとつは、自分がいかに孤独で孤立しているかということです。私の友人には、子供を産んだり、流産したり、不妊に悩んだりしている人がいますが、彼らは常に友人関係の中でそのことをオープンにできているように感じます。しかし、私は多くの友人と話すことができませんでした。なぜなら、彼らがどのように反応するかわからないからです。これは社会的に不公平なことだと思います。
私にはすでに2人の子供がおり、2度の流産を経験し...
私にはすでに2人の子供がおり、2度の流産を経験しています。私の妊娠はいつも大変で、妊娠を継続することは無責任だとすぐにわかりました。妊娠中に中絶することは、私にとって良い区切りであることがわかりました。そして、公平に見て、私はクリニックに行かなければならない意味をあまり理解していません。COVID以前は、薬による中絶をする場合、クリニックに行って、クリニックで診察を受けて、最初の錠剤を飲むように言われ、その後、2番目の錠剤をもらって家に持ち帰ると書いてありました。ですから、どちらかというと、電話で相談するよりも、誰かに直接会って話をしたほうが、少し感情的になってしまうのかもしれません。ちょっと意味がないような気がします。手術による中絶が必要な場合、明らかに診察に行く必要があるのは分かりますが、早い段階で、本来なら自分の家で自分のものに囲まれて快適にできることを、診療所の環境に行かなければならないのは必要ないことだと思うのです。私の場合は、あまり痛みもなく、すぐに終わったのでラッキーでした。
私はすぐに中絶したいと思いました。私はずっと子...
私はすぐに中絶したいと思いました。私はずっと子供が欲しくないと思っていました。中絶について何も知らなかったので、私が見つけることができたのは、後悔とひどい経験について話す人たちの話だけでした。もっと普通の経験をしている人と話したかったし、「大丈夫だよ」と言ってくれる人が欲しかった。険しい道のりでしたが、終わってみれば正直なところ安心感しかなく、同じプロセスを20回繰り返しても、毎回同じ決断をすることができました。
妊娠がわかったときは、悶々とした日々でした。そ...
妊娠がわかったときは、悶々とした日々でした。そして、多くの時間を泣いて過ごしました。そして、Alliance for Choiceの活動家たちと話をしました。毎晩、私がどう感じているか、同じことを何度も何度も繰り返しましたが、彼らは皆、同じことを何度も何度も聞いてくれたのです。そしてある人が、もしあなたが魔法の杖を持っていたら、何をしますか?と聞かれたので、「こんなことは二度と起こらないようにする」と答えました。そうしたら、電球のように、何をすべきかわかったんです。自分自身と子供に、望んでもいない人生を歩ませるわけにはいかないのです。北アイルランドでは中絶に対する偏見があり、本当に大変でしたが、私はAlliance for Choiceにずっと支えられて、自宅で中絶薬を飲んで中絶をすることができました。もし、Alliance for Choiceがなかったら、私はどうなっていたかわかりません。女性たちのサポートは私にとって大きな意味を持ち、私は一人ではないのだということを教えてくれました。ピルを処方してくれない医師がいることは知っていますし、それは私を怒らせるだけです。でも、周りの女性たちのサポートがあったからこそ、安心して自分でもできるようになったんです。彼女たちの精神的なサポート、ほとんど手を握ってくれるようなサポートがあったからこそ、私は勇気を出して実行できたのです。
コロナの最中に自宅で中絶をしましたが、何が起こ...
コロナの最中に自宅で中絶をしましたが、何が起こるのか、私はちゃんと分かっていませんでした。パニックにはならなかったけど、当時は中絶をしたことがある人を知らなかったので、どうしようと何度か戸惑いました。一番いいのは、慌てずに、何か心配事があったらすぐヘルプラインに電話することです。私の場合、さっさと終わったつもりだったのに、3日後くらいにトイレに行ったら、かなりの量の出血があって、本当の流産はそのとき起こったのです。全く心の準備ができてなかったし、妊娠が終わったと誤解することがあるなんて、誰からも聞いていなかった。電話で問い合わせたら、ああ、それは普通のことですよ、と言われました。だから、クリニックと連絡を取り続けることが大切です。
私が愚かにも妊娠してしまったのは、まだ若かった...
私が愚かにも妊娠してしまったのは、まだ若かったからです。その時点で16~17週目だったのですが、なんとかかかりつけの医師を説得して貴重な緑の同意書をもらいました。私があまりに若かったので、かわいそうに思ったのでしょう。私は地下鉄の終点にあるクリニックに行きましたが、ポケットから緑色の用紙を取り出すまで、同意書の問題で躊躇していました。それはまるで魔法の杖を振っているようで、私は事態を解決するために劇場へ降りていきました。今日に至るまで、望まない妊娠をさせられずに済んだという安堵感以外、何も感じたことはありません。もっと適切なアドバイスを受けていれば、このような事態にはならなかったはずです。どんな女性も自分の意思に反して妊娠を強いられるべきではありませんし、すべての子どもは偶然ではなく、待ち望まれるべきものなのです。私は自分の行動に後悔したことは一度もありません。
私は成熟した大人であり、愛情あふれる思いやりの...
私は成熟した大人であり、愛情あふれる思いやりのある関係にあると信じていました。今となっては、それは大きな間違いだったと感じています。中絶を選択するのはとてもつらい決断でしたが、赤ちゃんを守るためには仕方がないと思っていました。残念ながら、私は一人でできるほど精神的に強くなかったし、妊娠を続けていたら、もっと多くのトラウマがあったでしょう。私はこの世界から赤ちゃんを守ったことを後悔はしていません。私は、自分が陥った状況を後悔しています。私のように自分の行動と折り合いをつけるのに苦労している人は、ぜひ自分が選んだ理由を思い出してみてください。
日本からの投稿
これより先は日本から投稿されたストーリーが掲載されています。
大学にいて、一人暮らしをしていました。同...
大学にいて、一人暮らしをしていました。同じ研究室で1年間助手に来ていた外国人の宿舎に押しかけて、数回関係を持ちました。ステディな男性は別で、離れた都市にいました。外国人の男性は、4月から遠くの大学に行くことになっており、関係がそれで終わるのは暗黙の前提でした。最後のセックスの時、終わったらコンドームがおしりの下にありました。彼は遠方に赴任し、そのあとで妊娠が分かりました。中絶に迷いはありませんでした。郵送で同意を取り、費用も半分負担してもらいました。手術の日のことは余りよく憶えていません。安静にしようと思って、手術後はゴロゴロしていました。相手が外国人だったので、水子供養などの観念はなく、私も気にしないでよくてありがたかったです。さばさばしているようですが、ステディな男性との間で妊娠したとき、もう2度と中絶はいやだと思ったので、仕事について1年経っていませんでしたが、産むことにしました。育児と仕事の両立は、本当に大変でした。
大学生の時に、避妊のミスで、つきあっていた...
大学生の時に、避妊のミスで、つきあっていた相手の子どもを妊娠してしまいました。大好きな人との子どもだし、とても産みたくて、いろんな手段を考えたのですが、相手から「君とのことは本気だし、いつか結婚したいけど、今は就職も決まっていないし、どうしても今回だけは諦めてほしい」と頭を下げられ、泣く泣く諦めました。
後に彼とは結婚し、しばらくして子どもも生まれましたが、どうしても「最初の子」のことを思い出してしまって、辛くてたまらずあちこちのカウンセリングなどにもかかりました。
ある時、「最初のお子さんを産んでいたら、今のお子さんは生まれていなかったかもしれませんね」とカウンセラーさんに言われて、はっとしました。学生の時にがむしゃらに結婚して出産していたら、大学はやめていたかもしれないし、親に迷惑をかけながら子育てすることになっていたに違いありません。そうしたら、やりがいのある今の仕事にも決して就けていなかっただろうし、彼との関係もおかしくなってしまっていたかもしれません。生活が安定していてから産んだ今の子も、産めるような状態にはなっていなかった可能性も高いでしょう。
そう気づいてからは、今の家族を大切にして生きていこうと、改めて意識を切り替えることができました。私の中絶は悲しいできごとでしたが、その悲しみを乗り越えてきたからこそ、得られたものもあるのです。
今、中絶のことで苦しんでいる人にも、そんな風に考えられる時が来ることを願っています。
私は27の時に当時付き合っている彼氏との間に...
私は27の時に当時付き合っている彼氏との間に子を授かりました。本当に大好きな相手で別れたくないという思いと、自分は生理不順なので妊娠しにくいだろうという甘い考えが避妊をしない性交渉へと繋がっていました。当時は遠距離恋愛でしたが、半年後には彼の元へ引っ越す予定でしたので、引越し、結婚、出産の運びとなるだろうと考えて、彼に子供ができたと伝えました。彼は1日考えたのち、「今はタイミングじゃないから降ろしてほしい。」という答えを出しました。
その時のショックを何と表現したら良いか分かりません。彼は私と結婚はしたいが、子作りはもっと生活が安定してからと考えていたそうです。私も彼も手堅い職業についているのになぜ、お互い27歳なのになぜ、私のことは好きだと言っているのになぜ…。沢山話し合いをしましたが、それは話し合いではなく彼からの一方的な意見の押し付けで、最終的には「勝手に産んで勝手に不幸になったらいい。」と言われてしまい、諦めがつきました。中絶予定日までの十数日、重いつわりのため何も食べられず、それでも仕事は通常通り行い、体重は40キロを下回りました。でも1番辛かったのは心で、この苦しい思いはまるで息ができない水中で暮らしてるようだと思いました。
結局中絶後も半年ほど彼と付き合いましたが、中絶したことがどうしても引っ掛かり、彼とは破局。最後まで別れないでほしい、結婚してほしいとせがまれましたが、もう彼のことは大切に思えませんでした。妊娠した日に入れた胎児成長アプリを消して、自分の腹の中にいる命を命と認めないように過ごさなければいけなかった十数日のこと、あなたに想像できる?と聞いたら何も答えはありませんでした。
私のケースでは、妊娠には私にも彼にも責任があります。その点で彼を責めることはありません。中絶していなかったら、意見の合わない彼と悲惨な結婚生活を送っていただろうなと思うと、私たちが下した決断は間違ってはいなかったと思います。中絶のことも、時間が経つごとに記憶がだんだん薄くなってきています。
それでも子連れを見るたびに、あの子を殺していなければ今頃は、と思うことがあります。